2024年11月23日( 土 )

経済小説『落日』(21)ワンポイント1

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谺 丈二 著

 朱雀屋の本部には商品部やコンピューター、その他の部署で300人余りが働いていた。井坂は時々自分の部屋を出て、ふらりと各部署を訪れた。ゆっくり通路を歩く井坂に社員のだれもが一瞥さえしない。朱雀がおなじように歩くとそれぞれが素早く立ち上がり大きな声で挨拶する。財務部長の太田がいう通り社長以外は皆平社員という事実を井坂は改めて実感した。

 井坂が久しぶりに銀行の専務応接室に杉本を訪ねたのは、株主総会を1カ月後に控えた4月の初めだった。朱雀屋にきて1年が過ぎていた。

「朱雀さんの後釜だが、とりあえず稲川副社長で調整しているところだ。社員の評判も悪くないようだし。君はとりあえず後任の副社長として1年、様子を見てくれ」
「わかりました」

 井坂にとってワンポイントは誰でもよかった。業績の不振は昨日や今日に始まったものではない。この10年来ずっと低下傾向が続いている。それだけに誰が社長になっても、1年そこそこで劇的に改善するというような簡単なものではないはずだ。

「稲川さんには朱雀さんから伝えてもらう」

 杉本の言葉に井坂は黙って頷いた。

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 3カ月ほど前、年明けから間もないある日、西総銀専務応接室で杉本卓郎は朱雀剛三と向かい合っていた。

「業績の方は相変わらず、厳しいようですな。先行きはどうなんでしょう」
「井坂顧問を始め、役員と社員全員で頑張っています。何とか改善の兆しも見えてきましたんで、あと1年もあれば」

 朱雀はその心とは裏腹に明るい声に笑顔を添えて杉本に言った。

「いやあ、いつもと同じお答えですな。かれこれ10年近く同じセリフを聞かせていただいていますよ」

 杉本が苦く笑いながら朱雀を見た。

「社長、こう言っちゃなんですが、そろそろ朱雀学校の優等生に後を託すというのは如何でしょう」
「は?」

 怪訝な顔の朱雀を無視して杉本は続けた。

「人心一新と言いますか、いったん若い者に任せてみるということですよ。視点を変えて意外とうまくいくという例もありますからね。そうでないと皆さん、いつまでも朱雀さんに頼りきりですから」

 業績不振の一端は経営幹部たちの自主性の欠如にあるのではないかというようなことを杉本は言った。朱雀の顔にみるみる不快が広がった。

「おっしゃる真意がよく見えませんな・・」
「そういえば以前、営業本部長を専務にお譲りになったことがおありでしたね」

 朱雀の言葉に反応することなく杉本は続けた。

「それは・・」

 朱雀は返事に窮した。確かに5年ほど前に朱雀は専務の1人である長男の一茂に営業の全権を任せるといってかたちの上で一線を退いたことがあった。しかし、それは半年も続かなかった。一茂が若手の改革派を募り、それまでのどちらかというと情緒的な経営風土を論理的、合理的なそれに転換しようとしたからだった。たまたまその会議を傍聴した剛三が自らの意見を述べようとしたとき、一茂はそれをやや強い口調で遮った。そして、退室を促した。

 任せると言ったら任せてほしいというのが一茂の言い分だった。少しでも朱雀の意見を受け容れれば、リモートコントロールとの風評が生まれることを一茂は恐れていた。そうなると社員の信頼を得ることができないだけでなく、二頭政治で組織は混乱する。しかし、退室を促された朱雀剛三は烈火のごとく怒り、すぐさま一茂の営業本部長の職を解いた。

 このとき、剛三の怒りをサポートしたのが子飼いの役員たちだった。彼らは朱雀剛三が経営の第一線から退かないのを確信していた。たとえ役職を譲ったとしても、経営の方向は自分が決めなければ気が済まない朱雀の気質を知り抜いていたのだ。

 彼らはいつでも、どんな場合でも朱雀剛三の味方だった。それが幹部として存在できる唯一の条件だったからである。

 朱雀剛三は一茂を解任すると自らが営業本部長に座り、その後、稲川や牧下、沖松といった3人の専務を次々にそのポジションンに据えた。もちろん、彼らが朱雀の意に反した手法を取れるはずがなかった。

 もともと銀行の本音は、1日も早く井坂をトップにして朱雀屋の改革を進めたいというものだった。しかし、創業者から直接のバトンタッチは業界マスコミだけでなく、一般紙からも乗っ取りというバッシングを受けかねない。それを避けたい銀行が選択したのが生え抜きを間に挟んで実権奪取というしたたかなシナリオだった。

「稲川君、実は頼みがあるんだが」

 社長室に呼ばれた稲川広太郎は自分の耳を疑った。

「どういうことでしょう?」

 自分に代わって社長をやってくれという朱雀の目は、今までに見たことのない真剣なものだった。交代の理由を訥々として口にする朱雀の姿は稲川が知っている朱雀とはまるで別人だった。もちろん、本当の理由は朱雀の胸の奥にしまわれたままだった。その理由を稲川に告げるのは朱雀のプライドが許さなかった。

(つづく)

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