2024年12月23日( 月 )

経済小説『落日』(23)既定路線

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谺 丈二 著

「いやあ、創業者からの直接のバトンの引き継ぎは大変だったでしょう。ほんと、ご苦労さまでした」

 就任後最初の決算を間近に控えたある日、その報告のために西日本総合銀行を訪れ、特別応接室に通された稲川に杉本が笑顔で言った。
 それを聞いて稲川は怪訝な顔で杉本を見た。気になったのはその口から出たご苦労でしたということの終了を表す言葉だった。

「ところで稲川社長、最近は体調もすぐれないとうかがっていますが」
「体調? 何のことでしょう」

 突然銀行に呼び出され、いつもと違う明るい杉本の態度にある不自然さを感じ取った稲川は眉間を固くした。

「稲川さん、相変わらず業績も厳しいようですし、体調もすぐれないとなるとこれ以上の激務はお体によくないのでは。少しゆっくりなさってはどうでしょう」

 杉本は稲川の顔から視線を外し、床に眼を落とすようにして言った。

「確かに業績はまだまだ厳しいものがあります。ですが、社内の空気は以前と違ってずいぶん明るくなってきています」

 言葉の意味を薄々感じながらも、もう少し時間をくれと稲川は杉本に言った。

「稲川社長、お金と時間は無限ではないのですよ。少しは借金を返していただかないと。確かに金利をいただいている以上あからさまに文句はいえないのでしょうが、元本が減らないということは先行きの厳しさを物語っていますからねえ。ここは1つ後進に道を譲って・・」
「後進に譲る? なるほどそういうことか」

 稲川広太郎は半ば杉本の言葉を遮るように頬を硬くした。

「乗っ取り前のワンポイントか。手の込んだことを。体裁と体面をつくろったコソ泥以下の手口だな。あんたら、そんな単純な考え方じゃ、小売はやれんよ」

 憤懣をそのまま言葉に変えたような稲川のぞんざいな口調に、杉本は口をすぼめて不機嫌そうに横を向いた。
 稲川は怒りをそのまま席を立ち、後ろ手で強くドアを閉めて部屋を出て行った。
 常識的に見れば変則だが1年での社長交代は最初から銀行が決めていた既定の路線だった。

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「会長、どういうことでしょう?」

 朱雀屋本部に帰るなり稲川は会長室の朱雀を訪ねた。

「たっての頼みということで引き受けて、たった1年で御用済みというのは納得できません」

 いつになく強い口調で稲川は朱雀に詰め寄った。

「社長、すまん」

 朱雀が椅子に座ったままデスクに両手をついた。

「ここ1年で一気に業績を上げてもらい、銀行の書いたシナリオを何とか崩したかったのだが・・」

 そういう朱雀の言葉に嘘はなかった。しかし、1年という時間は低迷した業績を立て直すにはあまりに短い時間だった。朱雀の目には悔し涙が光っていた。

 任期途中の稲川解任に関しては当然のことながら銀行から事前に聞かされていた。その提案は朱雀にとって、耐え難い悔しさだったが銀行主導のトップ人事に反対するほどの力はすでになかった。
 新年度人事で稲川は会長になり、朱雀には名誉会長というブリキの勲章が与えられた。もちろん、2人に代表権はなかった。

「よかったですね。業績も経営環境も井坂社長には天が味方していますよ」

 社長交代を一番喜んだのは牧下だった。

「君は幸せな男だな。業績というのは君の責任でもあるんだよ。君はボードとして何も感じないのか?」
「感じないわけではありませんが、業績の最終責任者はトップですからね。もちろん、新社長には心機一転、粉骨砕身でお仕えします」

 牧下の反応は井坂としても唖然とするものだった。さすがの井坂もその能天気にいささかの不安を覚えた。

 たしかに、朱雀屋にきてからかたちの上では精一杯井坂を支えている牧下だった。しかし、社員から耳にする牧下の評価は芳しくないものばかりだった。

 牧下にかかわる問題行為をたしなめる言葉を井坂が口にするたびに、牧下は卑屈な笑みを浮かべながら井坂のために全力を尽くすと繰り返した。

「これからが本番です。井坂社長と朱雀屋のためなら私は何でもします」
「そうか」

 2年続きで開かれた幹部による新社長就任の内輪の宴席で、牧下は井坂のそばを片時も離れず、何度も同じ言葉を繰り返し、酒を注いでくる。酌の回数が信頼の濃さにそのまま変わると思ってでもいるようなしつこさだった。

 朱雀に対してもそうだったに違いないと井坂は思った。いや、自分が失脚して、新しい支配者が現れてもこの男はその支配者に同じような態度をとるのだろう。

 井坂は多分に憐れみを込めた冷やかな笑顔で牧下の汗ばんだ顔を見た。この男のあなたのためというのは裏を返すまでもなく自分のためということに他ならない。

(つづく)

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