2024年12月23日( 月 )

経済小説『落日』(29)スケープゴート3

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谺 丈二 著

 井坂が社長になると役員のダイヤルイン回線はすべて交換経由秘書室というかたちに改められた。いつどんな人間が役員に連絡してきたかが秘書室通しで記録され、井坂や犬飼に報告される。

「まあ、まあ、石井ちゃん。いろいろ言っても価値の選択と正義は常に権力側にあるからねえ」

 一茂は石井の言葉をやんわり制しながら、運ばれた紙コップコーヒーを勧めた。

「役員室来客への湯茶のサービスもついに自販機経由ですか? 変われば変わるものですね」

 苦笑いをしながら石井は紙コップを手にした。

「ところで書籍コーナーに上杉鷹山が積み上げてありましたが?」
「新社長のご推奨らしいね。結構売れているらしいよ」

 朱雀一茂はメガネの奥の細い目を宙に泳がせながら皮肉交じりの笑顔を浮かべた。

 以前から商談室の一角には本部の社員と商談にやって来る取引先用の小さな書籍販売コーナーがあった。一茂の部屋を訪ねる前に立ち寄ったそのコーナーで、石井は高く積み上げられた上杉鷹山の単行本を見たのだった。

『井坂社長ご推奨の本です。ぜひ読んでみてください』
 本の横には、そんな推奨プレートが立てられていた。

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「九州の小藩から名門上杉に養子に入って、見事藩の財政を立て直したってやつですね。なるほど古い幹部に権力闘争を仕掛けて経営を立て直せってですか」

 石井がおどけた調子で言った。万事がこの調子だから当然のことながら新体制にも受けがいいはずがなかった。朱雀時代も同じだったが、なぜか一茂はこの男と妙にウマがあった。

 以前、一茂が父親の剛三に意見をして役員から小型店の店長に左遷された時もほかの幹部のほとんどが剛三に遠慮して一茂を避けるなか、時間をつくっては一茂の店を訪れ、同僚として現場経験の少ない一茂にアドバイスを続けた。一茂が専務として返り咲くとほかの社員とは逆に距離を取るようになった。

「鷹山か・・。財政改革のお手本ですね。でも、伝記がそのまま現代実務のサンプルになるかどうか・・?」
「正義を振りかざすには大義がいるからね。その点でいえば絶好のツールじゃないの」

 一茂がコーヒーカップを口に運びながら笑顔で言った。

「時代、組織を問わず大きく流れを変えられるのはよそ者、若者、変わり者といいますからね。改革する異端者になれという意味かな」

 石井が笑いながら言った。

「そうだろうね。その3者を経営の中心に据えるというのはなかなか容易じゃないね。でも、それができないと結果的に違う種類のよそ者がやって来るね。今の当社のように」

 一茂が真顔で応じると2人は声を合わせて笑った。

 天井の照明が突然消えたのは応接室に入って30分ほど話して席を立とうとした時だった。

「いや、経費節減だよ。昼食時間は原則、基本照明を全部落とすんだ」

 驚いたような石井の顔を見て一茂が苦く笑った。

 別れの挨拶を交わし、応接室を出ると薄暗いなかで何人かの社員が弁当を広げようとしていた。広いフロアのほとんどの部分に窓からの明るさは届かない。

「暗いなかでの食事、美味しくないだろう?」

 帰りしな、石井は女子社員の1人にそう声をかけた。彼女は石井を一瞥して表情を変えずに、軽く頷くとそのまま弁当に向かった。手元がようやく見えるようななかで多くの社員が会話することもなく弁当を開き、ただ箸を動かし始めている。複雑な思いのなかで石井は本部を後にした。

 このままじゃいけない、というのはここ10数年来の一茂の口癖だった。如何に卓越した指導力でも世代を超えてその力を維持し続けることはできない。まして変化の速い今の時代には、過去の成功手法はすぐ陳腐化する。その危機感からかつて一茂は本音がいえる若手を集めて、中期経営計画のプロジェクトを組んだことがあった。思い切った店舗改革を訴えるメンバーには、生え抜き、中途入社組が混在していた。石井もその1人だった。組織は成熟すると成長時に外に向かっていた闘争心を内に向けてのそれに変えるのが一般的である。いわゆる内部の権力、主導権争いである。それはとりもなおさず組織そのものの対外競争力を弱める。

 時代が変わるとき、当然、市場も変化するがそれにうまく対応するのは口でいうほど簡単ではない。

 たとえ、社内に変化対応の重要性を認識する若手や中堅社員がいたとしても、彼らがまず直面するのは社内の保守派の壁である。彼らの大方は過去の功績で幹部職位に上り詰めている。時流に沿うための改革には、まず彼らの理解と納得が欠かせない。しかし、過去の成功手法を否定しながら彼らの賛同を得るには小さくないエネルギーが要る。本来、前向きに発揮しなければならない情熱と知恵が、社内説得に費やされるということである。このことはいうまでもなく、大きな組織的損失になる。内部説得に手間取る余り、時間や機会のロスを生じて企業の活性を消耗していくという笑えない現実は少なくない組織に存在する。

 プロジェクトメンバーが出した結論は思い切って経営姿勢、営業形態を変えなければ将来の展望はまったく開けないという経営幹部にとってかなり手厳しいものだった。

 そのとき、報告担当だった石井一博が結論として口にしたのは『取締役の皆さんが社長に脳みそを預けている限り当社は変わらない』という参加幹部が唖然とする過激な表現だった。

(つづく)

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