2024年12月23日( 月 )

経済小説『落日』(45)目の奥の不快1

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谺 丈二 著

 実は石井は数年前、似たようなことを体験していた。突然、牧下の依頼で西総銀から朱雀屋の経理課長に出向していた磐田馨という男を顧問として受け入れたことがあった。牧下によると磐田は軽い鬱を患っており、しばらく無任所の部長待遇で受け入れてほしいとのことだった。

 石井の会社にきて数カ月後、重い口を開いた磐田から石井が聞いたのはにわかには信じ難いことだった。

 真面目一本の磐田はあまりにも危うい井坂の経営を思い切って西総銀副頭取の久賀喜一に直訴したという。このままでは銀行を巻き込んで大変なことになるから早急に調査、改善をというのがその内容だった。

 ところがその翌日、磐田は突然、牧下から専務応接室に呼び出され、そのまま牧下同行でK市の精神科を受診させられた。診断結果はうつ病。しばらく入院加療の後、石井の会社に出向ということになった。もちろん、石井のもとにきたとき、磐田はごくまともな精神状態だった。ただ、銀行が自分の訴えを退け、しかも精神疾患と診断されたことが大きなショックでしばらくは誰とも口を利きたくなかったのだという。その半年後、磐田馨はなぜか銀行に復帰した。その後の連絡はない。

「石井さん、社長からお話があるそうです」

 石井一博が秘書室長の戸田武から呼び止められたのは本部で開かれたある関連会社の会議の帰りだった。中肉中背を薄いベージュのスーツで包んだ戸田は丁寧ではあったが、誠意のない口調で石井に声をかけた。分厚い近眼鏡の奥で細い狡猾そうな眼が光っている。

「ほう、珍しいこともあるもんですね」

 戸田は石井の一期先輩だった。以前は親しく言葉を交わす仲だったが、あることをきっかけに疎遠になっていた。

「戸田店長は売場の書籍を数日、自宅に持ち帰って読み終えてから、売場に戻すことをしょっちゅうやっているんです。何とか言ってもらえませんか。売場の女の子に示しがつきません」

 あるとき、電話でそう言ってきたのはかつての部下で戸田が店長をしていた店舗の次長だった。

 閉店度、戸田は書籍売場にやってきて売り物の本を見繕い、自宅にもって帰っては元に戻すことを繰り返しているというのである。
「遠まわしに注意はしてみたんですが。なかなかやめてもらえなくて」それを聞いて石井はそれとなく戸田に注意した。事件が起こったのはそれから1か月後だった。

「石井さん、やられました。売場の女の子と私が不適切な関係であると店中にうわさを流されました。私は結婚していますし、しかも地元でしょう。まいりましたよ」

 しかし、その濡れ衣はやがて戸田が出元ということがはっきりし、そのことで従業員のひんしゅくを買った戸田は当時人事部長だった富田和夫に泣き付いて人事部に拾ってもらった経緯があった。今は秘書室長に出世している。

 ふだんはほとんど使うことのない朱雀剛三が現役時代に使っていたビップルームと呼ばれる広々とした特別応接室で、石井は結構な時間待たされた。

 気に入らない相手と会う時、井坂は必ずこの部屋を使った。そしていつも相手をたっぷり待たせる。部屋には中国の明代の作といわれる染付けの大きな花壺や富士山を描いた百号の油彩画が飾ってあった。

 陸上部や弓道部、それに全日本レベルの卓球部など朱雀屋の実業団スポーツクラブの表彰状が半ば雑然と壁の多く部分を埋めている。時間つぶしに石井はそれに目をやった。

 表彰状の名前で一番多いのが陳志明という名前だった。陳は中国籍の卓球の選手だった。ソウル五輪のダブルスの金メダリストでもある。石井が初めて陳と出会ったのは朱雀屋の新入社員の歓迎会の席だった。まったくの偶然だったがそのとき、2人は思わずお互いを見てびっくりした。まるで兄弟のように顔が似ていたからだった。その陳も妻をともなって日本にきて、もう十年になろうとしている。間もなく、日本に帰化するという噂も聞いている。その理由は金銭問題だとも聞いた。スポーツ選手の国家派遣ということで陳はその収入の何割かを国家に納めていると噂されていた。そんな陳の写真をぼんやり見ていると、待たせたことへの月並みな詫びの言葉とともに井坂が部屋に入ってきた。

「君はなかなか私のところにきてくれないからなあ」

 のっけから井坂は嫌味な言い方をした。

「お忙しい社長を煩わすほど無神経じゃありませんから。もちろん、こうしてお呼びいただければいつでもおうかがいします」

 石井は笑いながら言った。

「しかし、君はいやしくも関連会社のトップだろう。たまには自ら経営報告にきてくれよ」

 井坂も負けてはいなかった。

「ところで井坂社長、きょうはどんなご用件で?」

 気のない返事で井坂に応じながら石井が言った。

「いや、M県事業は順調に店舗をつくっているが君のところの出店スピードの遅さが気になってな」
「そうですね。でも、以前から申していますが、M県のやり方は少し乱暴です。スーパーというのは生鮮食品がある限り、半分製造業です。店舗運営にもそれなりの技術がいります。それを考えずに店をつくっていくとコストに合わないレベルの低い店舗がたくさんできることになりますが」

(つづく)

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