2024年11月22日( 金 )

経済小説『落日』(53)怪文書2

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谺 丈二 著

「いろいろ気を遣ってもらって済まんな、会長」

 社長室を訪ねた矢島に井坂は苦笑いをしながら言った。

「まあ、お偉い方にはなるべく身辺をきれいにしていただくことですね。組合にもお三方の良くない噂が結構聞こえてきますからね。社長が常日頃口にされているノブレスオブリージュを自覚していただかないと」

 矢島は井坂をはじめとする経営陣を庇ったメッセージを全社に発信したということで、あたかもボードの一員というような目をして言った。井坂のなかでこいつは何を勘違いしているのだという怒りが頭をもたげた。

「会長、もちょっと謙虚になれんかなあ」
「どういうことでしょう」

 期待とは違う井坂の反応に、矢島はあからさまに不満の表情を浮かべた。

「会社がなければ組合もないからね。いざとなったら、世間も労働基準法も君たちを守ってはくれん。会社は君たちの砦だよ。砦は自分たちで守らにゃならん」

 井坂は長身の矢島を上目づかいに見ながら言った。

「そのためには役員の皆さんにはしっかりしてもらわなければなりませんね」
「役員だけの問題じゃないよ。今や労働組合も立派な構造不況業種だからね」
「どういう意味でしょう」

 井坂の視線の先で矢島が口をゆがめた。

「時短、時短の大合唱もいいが、世界の歴史のなかで、楽をしながら優雅に暮らしたという例はないからね。かのビル・ゲイツだって、ハンバーガー片手に毛布一枚で研究室に一週間の泊まり込みもザラという努力で今がある。君たちも変な文書が出ないよう組合員をしっかり指導してくれよ」
「ちょっと待ってください。社長、そういう言い方はないでしょう」

 井坂からの感謝の言葉を期待していた矢島が口を尖らした。

「それになあ、このくらいのことでボーナスの回答が甘くなると考えてもらっちゃ困るよ」

 井坂は矢島の気持ちを逆なでするような言葉をさらに重ねた。

「そうですか。じゃ、今後は組合も是々非々の立場で対応します」
 矢島が再び口をとがらせた。

「まあまあ、会長、ここは穏便に行こう。それがお互いのためだ」

 意外な矢島の剣幕に、井坂はあわてて憮然とした表情のままの矢島の肩を軽くたたいた。

「時に社長、最近、店の組合代議員から伝票操作をはじめとする不正棚卸の情報が組合に報告されていますが、お聞きおよびですか」

 ふて腐れたような顔のままで、矢島が睨むように井坂を見ながら言った。

「何のことかな?」
「店舗で納品伝票が計上されていないようです。しかもその金額が半端じゃない」

 一瞬流れた沈黙と気まずい空気のなかで、矢島が続けた。

「不正が会社の命取りになるのは過去の銀行、証券の例もありますからね。組合は誤った経営への抑止力という一面ももっています。社長がおっしゃるように会社がなくなれば、私たちも雇用という肝心の権利を失います。だからこそ、井坂体制に全面協力しているつもりですが」

「ボードだって全力でやっているよ。一番の問題は君たち社員の働き具合じゃないのか。給与という権利は声高に主張するが、予算達成という義務は果たさない。これじゃ経営がいくら頑張っても焼け石に水だ」
「お言葉ですがね、社長。今時、会社と仕事への滅私奉公を求めるのはアナクロニズムですよ。ボードで方向と手法をはっきりさせ、それを基本に社員に檄を飛ばすのはわかりますが、ただやみくもに働けというのでは数値は改善しませんよ。挙句の果てに架空伝票で決算をごまかすのは犯罪そのものじゃないですか」

 細面の色白の顔を震わせるように、矢島が井坂を睨みつけた。どちらかというと気の弱い矢島にしては思い切った言い方だった。怪文書を介して、組合なりの井坂への忠誠を伝えたつもりが、感謝の言葉どころかさらなる労働条件の締め付けにまでにおわされて、矢島はいささか冷静さを失っていた。

「矢島君、会社はなあ、存続さえすれば今の損は明日に取り戻せるんだよ。会社がなくなれば何もかもおじゃんだ。下手な正義を貫いて会社を潰すより、ここはどんな手を使ってでも生き延びる。ここで労使が対立すればそれこそ当社はひとたまりもないぞ」

 憮然とした顔つきで井坂を見る矢島に井坂は言葉を続けた。

「今の当社は緊急避難状況だ。明日につなぐには今日を生き延びるという前提は崩せんのだ。労使は同じ船に乗っているんだよ。わしとあんたは仲間なんだよ。わかってくれんかなあ」

 井坂の開き直りに、矢島は不満ながらも納得するしかなかった。絶対的な結論を持ち出されては労使の話し合いによる常識的な経営プロセスなど成立のしようがない。握手を求める井坂の手を不承不承握り返して、矢島は社長室を辞した。

(つづく)

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