2024年12月23日( 月 )

経済小説『落日』(54)衝撃1

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谺 丈二 著

 井坂体制になって4期目の新年度の経営方針発表会が、例年にならって研修センターで開かれた。壇上に立った井坂はいつものように言葉を選ぶようにして訥々と話し始めたがその声はいつもと違っていささかとがっているように聞こえた。

 示達と称する井坂の話は業界紙や新聞の記事をコピーして参加者に渡し、それを解説するというやり方だった。いわゆる時事解説である。話のなかで時間がないから端折って申し上げる、という言葉を訥々と繰り返すのが井坂のいつものパターンだった。ところが今回は少し違っていた。例年のような新年度の訓示を終えた後、井坂は携えた封筒からおもむろに別の資料を取り出すと、いささか強い口調で訴えた。

「ここにあるのは店長の12月の公休消化実績です。この業績だというのにきちんと休んでいる店長がおります。どういう神経か私にはわかりません」

 いつもの井坂にない突然の大声だった。唖然とする社員に井坂は「働き負け」という決まり文句を使って、幹部に危機感がないと小一時間も怒りの言葉を繰り返した。

「新年の方針にしては変わった内容でしたね」
「そうね、こっちは一瞬放心状態になりました」

 散会後の通路で参加者の間で小さく歪んだ笑いが流れた。

「社長、どうもいけませんなあ」

 木田満男が社長室を訪ねてきたのはその数日後だった。

「何かまずかったかな?」

 てっきり方針発表の公休消化に関しての抗議と思い、井坂はニコリともせず答えた。木田は朱雀や労組OBでK市の市会議員をしている。現在3期目で朱雀屋を休職中だった。

 労組の専従期間と議員歴を合わせるととうに20年を超えている。そんな木田が朱雀屋本部に顔を出すのは選挙の時期だけで、あとはめったに姿を見せない。企業内候補ということで、朱雀屋内の票固めは不要なので、もっぱら地元の面倒を見ることが仕事になっている。朱雀屋労組という組織票があるだけに地元の票さえ固めれば上位当選はほぼ動かない。井坂の社長就任時も一度挨拶に訪れただけだった。

「方針発表ではかなりきわどい督励をされたようですね」

 無沙汰の挨拶を終え、ソファーに腰を下ろすと木田が皮肉の混ざった笑顔で井坂に言った。

「当社の幹部には危機感がないですからなあ」

 やはりそれかと思いつつ、井坂は木田を見た。

 色黒で頬骨が張った四角い顔と鋭い目の木田はがっしりした体格で一見、格闘技の選手のような風貌をしている。

「それはともかく、今日伺ったのはその話じゃないんです。店長、幹部は管理職、彼らの労務について我々の出る幕はありません」

 木田は鋭い目を少し和らげるように目じりに皺をつくった。

 来訪が方針発表のことではないと知って井坂は少し安堵した。秘書室から木田の来訪を告げられたとき、会議での発言が頭をかすめたからだった。

「実は話というのは商品部のことなんですが、いろいろ雑音が入ってきます」
「ほう、どんな雑音かな?」
「最近の朱雀屋は行儀が悪いというのですよ」
「どういう意味ですかな?」

 お茶を運んできた秘書に茶菓子をもって来るようにいうと井坂は湯呑のふたを取りながら木田を一瞥した。

「地元の取引先や工事業者から井坂体制になってからというもの取引量や支払い条件で朱雀屋は冷たいというのですよ」
「ほう」

 井坂は軽く息を吐くと湯呑を口に運んだ。

「私も選挙のときには彼らに世話になりますし、朱雀屋のお客でもある彼らと協力していくことはいろいろな面でメリットがあると思いますがね」

 木田は思わせぶりにそういうとソファーに深く座りなおした。

「この前もT先生から少し注意を受けましてね。先生も朱雀屋を心配しておられました」

 T先生というのは閣僚経験もある地元の代議士だった。それから小一時間、木田はいろいろな情報を井坂の耳に入れた。

「木田という男は朱雀さんと近いのか?」

 木田が帰ると井坂は秘書室長の戸田を呼んだ。

「そんなことはないと思いますよ。朱雀会長はもともと組合幹部をあまりお好きではなかったですから。木田さんとしては春の選挙が近いんで挨拶代わりの訪問でしょう」
「そうか、それにしても馴れ馴れしかったな。おまけに忠告までしてくれたよ」

 ネクタイを締めなおすようなしぐさをしながら井坂が言った。

「そうですか。うちの組織票のおかげで、彼は過去3回とも上位当選です。次回も推薦を受けて議員を続けたいんじゃないですか? あと1期やれば県議も狙えますから」

 戸田が薄く笑いながら言った。

「それにしてもあれは人にものを頼む態度じゃなかったな。市議会議員といっても店長に毛の生えた程度のものだろうに」

 井坂が不機嫌そうに吐き捨てた。

(つづく)

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