経済小説『落日』(62)困惑3
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谺 丈二 著
「社長、これじゃとてもじゃないが承認できませんね。下手をすると資格はく奪ですよ」
社長室のソファーに深く腰掛けて公認会計士の森田隆二が不快をそのまま顔に出して低い声で言った。
「何のことですかな?」
「現金と違って在庫商品は日々その価値が落ちるんです。有価証券だって時価が基本でしょう。ま、従来の価格をマークダウンせずにそのまま棚卸に入れるのはいいとして、考えられないことが店舗現場で起こっていますよ」
「何だね。それは?」
「入荷時に仕入れ伝票を計上せず商品だけ売場に出してそれを棚卸に加えているというじゃありませんか」
「誰がそんなことを言っているんですか?」
「私にだって本音で話せる付き合いの長い社員は複数いますよ。彼らの話では、大量の入荷伝票が多くの店で未計上のまま放置、保管されているということです。どう始末させるつもりですか」あきれたように森田が口をとがらせた。
「そんなことはないでしょう。まあ、それはそれとして先生、今は緊急事態です。ここを乗り切れば、次の利益で危機をクリアできますよ」
気色ばんだ森田に応えて井坂は視線を窓に置いたまま、呻くように言った。
「はっきり言います。新たに監査法人を探してください。個人でこれを凌げる事務所なんてないですからね。どっちにしても私としては判を押せませんな。経費の付け替えや繰り延べも含めて、考えられる手はぎりぎり出し尽くしました」
森田の反応はつれなかった。
「そんなこと言わんでもいいじゃないですか、先生。付き合いは長いんだし、何とか良い手を考えてくださいよ」
井坂は卑屈な笑いを交えてさらに哀願するように森田を見た。
「私としてはこれまでさんざんアドバイスしてきましたよ。でも、これ以上繕えば、明らかな商法違反です。株主を騙すことになる。西総銀さんは良いとしても、一般株主や取引先まで騙しちゃいかんでしょう」
森田は軽い皮肉とともに井坂を突き放した。
「先生、騙すなんてのは穏やかじゃないですね。今日を凌いで明日につなげれば何とかなります。今日を耐えなきゃ明日はないですからね。付き合いは長いんだ。今さら、勝手にしろはないでしょう」
卑屈な笑いを怒りの眼に浮かべて、井坂は開き直るように言った。
「でもその明日への保証があまりにも危うい。塩漬けの不良在庫を今後の利益でカバーするなんてのは、高度成長時代の幻想ですからね。肝心の売り上げだってこのままじゃ回復の見込みなしでしょう。とにかく、銀行を通じて、大手の事務所に依頼してください。お宅の社員は優秀だし、愛社精神が強いから、うまくやればしばらくは何とか繕えるかもしれません」
朱雀屋の上場前から顧問会計士として、朱雀屋の決算を指導してきた森田だった。ここ数年の厳しい決算も、違法すれすれのテクニックを太田に伝授しながら何とか乗り切っている。しかし、ここに至っては、さすがの森田にも打つ手がなかった。
「とにかく私は持病の悪化で業務に耐えられんということで辞任しますから。最後の手段の準備も、今のうちから考えておいた方がいいかもしれませんな。きょう決定して、明日実行というわけにはいきませんからね。太田常務とじっくり打ち合わせておいた方が賢明ですよ」
社長室のドアノブに手を掛けながら、森田は井坂に法的整理の準備を促す言葉を残した。
(つづく)
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