経済小説『落日』(68)株主総会
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谺 丈二 著
赤字決算以来、井坂は社長室のデスクに頬杖をつくことが多くなった。朱雀屋にきたころに比べて白さが混じった髪も、ずいぶん薄くなっている。
朱雀屋創業以来、初めての赤字があらゆる財務的手段を講じたにもかかわらず生じたということは、もはや社員のほとんどが知っていた。しかも先の見えない赤字だった。当然、株主総会も例年通りのシャンシャンと行くはずがない。創業以来、初めての赤字というのも、プライドの高い井坂にとって我慢できないことだった。井坂の心情からすれば、赤字はいかなる理由を付けても許されるものではない。
頭のなかに重苦しい不安が霧のように立ち込めていた。
「傍観による未必の故意ではないのですか?」
そんな井坂の耳の奥をこもるような加藤達三の低い声が横切った。
「経営には英知と現実感覚が必須ですからね」
前期の決算を報告したとき、加藤は侮蔑の目で井坂を見ながら言った。
「当行をはじめ、機関投資家がもっている株式は20万を超えます。昨年の株価が1,000円で今が300円。損失は140億です。メインとしての面目はどこにもありません」
最後に吐き捨てるようなその言葉を残して加藤は自ら会長応接室を出て行った。
「稲川前会長から公開質問がきています」
株主総会直前の経営幹部の打ち合わせ会で牧下がえんじ色のネクタイの結び目に手をやりながら言った。
「そんなのはどうでもいい。他の問題はないのか」
「大丈夫です。総会対策はすべて済んでいます」牧下は笑顔で大きくうなずきながら井坂を見た。しかし、実際は何の手も打ってはいなかった。
この男が一生懸命になるのは、自分に火の粉が降りかかる場合だけだった。牧下のなかでは井坂が社長に就任したときの感動はとうに色あせていた。目の前にいるのは経営を失敗し、株主総会を恐れる初老の男でしかない。
今の牧下にとっては何もない総会より、井坂が苦しむ総会のほうが退屈しのぎになる程度のことでしかなかった。しかも、井坂が失脚すれば自分に社長の座が回ってくるかもしれない、とさえ考えていた。
5月25日。5月にしてはひどく暑い日だった。総会は怒号とヤジが渦巻いた。きっかけは赤字を追及する株主の質問に対し、井坂が「自分には経営能力がないかもしれない」と口を滑らせたことだった。
井坂のこの一言は、まるで火薬庫に火を投げ込んだようなものだった。「能力がないならやめろ」との叫びは次々にほかの厳しい質問とヤジを誘発した。
質問者たちは朱雀屋の問題点を驚くほど詳しく知っていた。それは井坂たち役員を守るために最前列に陣取った社員株主を黙らせるに十分なものだった。
「お前たちのために質問しているんだ!」
動議に対し、異議なし、議事進行を叫ぶ社員株主の声は激しい質問者の一喝に沈黙するしかなかった。不規則発言者に退場を求める井坂の声も罵声に押しつぶされた。
紛糾するだろう総会を少しでも早く終わらせようと、牧下の指示で会場のエアコンは切ってあった。噴き出す汗のなかで初めての経験である激しい追及に遭って、井坂をはじめとした朱雀屋役員はただ体を小さくして目を伏せるしかなかった。
株主の質問は、もっぱら井坂に集中した。自分の名前が大声で連呼されるなかで、井坂は苦虫をかみつぶしたようにただ押し黙った。
「銀行の雇われマダムのあんたじゃ話にならん、西総銀の株主総会ではっきりさせようじゃないか」腹立ちとみじめさが交錯するなか、閉会を宣言する井坂の耳をある男の声が貫いた。思わず声の方を見た井坂の目に、薄い笑みを浮かべた稲川の顔が映った。
6年前のこの日、稲川が自分と同じ雛壇に座り辞任の挨拶をしたことが井坂の記憶に浮かんだ。そのとき、稲川は銀行の意向で辞任に追い込まれたことを沈痛な面持ちで株主に訴え、井坂の冷や汗を誘った。そして今、その恨みが営々と続いていることを井坂は思い知った。
(つづく)
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