小説『ジョージ君、アメリカへ行く』(1)旅立ち
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惨めな旅立ちであった。羽田空港には、東京に住む故郷の友人数名だけが、見送りにきていた。
1976(昭和50)年1月28日、寒かった。会社の誰にも出発日は知らせなかった。当然彼女の姿もない。
彼はアメリカで成功する自信がまったくなかった。英会話をマスターしたい程度のささやかな夢でったが、それすら自信がなかった。なにしろ中学時代から一番不得意な科目である。高校3年の夏季講習テストは6点だった。その後、猛勉強の甲斐あって、卒業時には56点をとったが、英語はやはり大嫌いだった。
白い小さな「点模様」の入った洒落た三つ揃えの紺のスーツを着ていたが、心はまるで敗残兵でった。いや、戦う前の陣地脱走のごとく、外国に逃げて行くような姿だったかもしれない。華やかなフルブライト留学生や、会社から派遣される海外駐在者の旅立ちとは違う。
3年間の慣れない東京でのサラリーマン生活でやつれ、体重は56㎏しかない。学生時代、台湾での遊びが過ぎて肝炎から黄疸になり、42日間入院したのが尾を引いていた。その後遺症なのか?
東京生活では、ストレスによる胃炎に悩まされ、「緑の薬」を飲み続けていた。川崎市野川の寮にいるときは、毎日バスに揺られ、満員電車を4回も乗り換え、京橋に通った。1年後、運よく逗子市の寮に移ったので乗り変えはなくなったが、横須賀線で1時間45分、徒歩の時間を入れると2時間以上かかった。
それに「マージャン狂い」で、毎日最終電車だ。マージャンは第二の仕事、金儲けになっていた。マージャンをしている時以外、彼の目は死んでいた。
この夢のない2年半もの生活における唯一の逃避は、海の上にいることだった。土日は会社のヨット・クラブで、葉山マリーナに通った。加山雄三に憧れ、会社のヨット部に入ったが、寮の便所の下駄を履いて行く姿は学生時代と変わらなかった。
そのデタラメなサラリーマン生活についに終止符を打つ時がきた。確かに、初めから入社3年で会社を辞めてアメリカに行く計画があったといえばカッコいい。
初任給5万1,250円、退社時は7万3,500円だった。ジョージ君は、なんと2年半で156万円も貯めた。預金のほとんどは社内の賭けマージャンで稼いでいた。とくにK大卒のエリートぶっている上司から巻き上げるとき、情け容赦はなかった。
なにしろ大企業である。新入社員でマージャンに強い奴がいると噂がたつと、本社の役員や部長クラスまで誘ってきた。
貧乏人は勝ち方を本能的に知っていた。それは負けないことだった。「双葉山と同じ69連勝中です。負けたことはないです」といつも豪語、吹聴した。
カモは放っておいてもかかってきた。「生意気な新入社員をとっちめてやれ」と、お誘いが毎日あった。喜んで出かけて行った。
最低でも3万円、多い時には15万円もの大金がいつも懐にあった。しかし、マージャンに勝つたびに、サラリーマンとしては挫折感に襲われていく。
会社では誰も彼の仕事を評価していない。もう出世の望みはない。落ちこぼれだ。
学生時代、彼は七条大宮の靴屋でアルバイトをしたが、彼が出勤した日は、全体の売上の75%を叩き出した。とくに女性客は、店長命令で、彼が担当させられた。
売るのは簡単だった。客が最初に手に取った型と色を覚える。彼女が迷っているときは、最後にその色か、形が似たものを勧める。殺し文句は、「絶対これが似合います」。断定することだった。他の店員のように、選択決定の責任を最後に客に押しつけなかった。
「私は学生ですが、あなたがこれに満足しなければ、自腹で私が買ってさし上げます。それだけ自信をもって勧めています」もちろん、貧乏学生にそこまで要求してくる客はいなかった。良い時代でもあった。
京都のソニー販売店の派遣社員でもジョージ君は抜群の成績を上げていた。最初は1,350円の日当でスタート。その後、就職の内定が決まった京大生がアルバイトで入ってきた。彼の日当は2,000円。京大生がひと月で1台も売れなかったのを見て、私学コンプレックスのジョージ君は、猛然と担当課長に抗議をした。
課長は言った。「どんな条件でものむよ、辞めないでくれ。君はうちのドル箱だ。大丸の現場責任者が君のことを高く評価している」。そこで当時としては破格の日給2,000円になった。さらに課長は、奨学金代わりに、1時間来れば2,000円やるとも言った。時給2,000円の大出世である。
京都では「結婚するなら京大、恋人にするなら同志社、用心棒なら立命館」と言われた。ついに、その京大生に並んだのだ。
「トリニトロンテレビ」を週末は1日10台売った。売るのは簡単だった。一言、「画面を見てください」。ソニーの画面は抜群にきれいだったからだ。ジョージ君は、それらの出来ごとを、自分の実力と勘違いしてしまった。
だから、入社前には営業力に絶大な自信をもっていた。やる気もあった。仕事なら命を掛けてやるぐらいの意気込みもあった。
そのジョージ君、実は商社マンになりたかったのだ。大学卒業時には敬愛している従兄に相談もした。「お前はバカで英語もできないのだから、商社マンは無理だ。自分の実力の80%ぐらいで生きていける会社を探せ、会社人生は長い」
「俺はやる気はあるよ、なんでもやる」
「お前の線香花火のような情熱は、それは衝動というものだ。その証拠に大学時代、英語の1つも勉強したのか?」
その当時、花形の造船業で世界中に船を売っていた従兄の言葉に説得された。
「わかったよ。できるだけ、時間のとれる会社に入社して、もう一度商社マンになるために英語を勉強するよ」
入社した保険会社にとっても迷惑な話だった。やる気のない、腰かけサラリーマンになっていた。かといって、簡単には辞められなかった。一応、頑張ってみようとも思った。しかし、その気持ちは3カ月ももたなかった。会社も仕事もだんだん嫌いになっていった。
学閥や門閥、毛並みが良い奴がこの会社で出世する、と聞くたびに心は腐っていく。俺はこんなにやる気があるのに。むき出しのやる気を見せると、先輩や同僚からは「育ちが悪い」と言われた。
東京でも「用心棒」扱いだった。それ以前に、そもそも生命保険のような保守的な仕事は、やはり性に合わなかった。本社には、3,000名の若い女の子がいると先輩に言われた。それだけが入社を決めた動機だった。考えれば実に愚かな動機だ。美人はいない。
いつも転職のために求人欄を見ていた。英語ができなくてもやれる仕事、証券界か?芸能プロダクションのマネジャー、代議士の秘書、総会屋…「やくざな仕事」ばかりが目に入った。
90%は愚かさだが、10%は、誰にもいえない、妙に根拠のない自信のようなものがあった。『葉隠』の武士道でいえば、男は一生に一度、命を賭けた勝負ができれば良い、と格好よく考えていた。そんな勇気など本当はあるはずがない。そこが「マンガ・ショージ君」たるゆえんだ。
本当は、サラリーマンのような、人生の長い戦いには向いていなかった。当時のジョージ君本人はそこまで分からない。自己をまだ過大評価していた。
とにかく、東京のサラリーマン生活は、ついに終わった。愛する日本よ、さよならだ。
どんなに日本を愛しているか?アメリカで証明してやる?飛行機は爆音を轟かせ飛びたった。
もう親兄弟、故郷の友達にも2度は会わないかもしれない。感傷的な気持ちが襲ってきた。当時は本土までの直行便はなかった。ハワイに向かって出発したのである。
(つづく)
【浅野秀二】
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