2024年11月24日( 日 )

小説『ジョージ君、アメリカへ行く』(7)ストックトンに行く

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 ジョージ君がストックトンに行く前夜、アラブ人と戦った戦友のキムが訪ねてきた。彼女を連れていた。ヒスパニック系白人の超美人だった。銀行家の娘で、親は超大金持ちのようだ。

 数日前に彼女をどうやって落としたか、彼から自慢話を聞かされていた。1カ月間、彼女のアパートの前に車を停め、寝泊まりして付きまとったそうだ。蛇に睨まれたカエル、深窓の令嬢はうぶだった。しかも孤独な外国生活だ、強い男に惹かれたのだ。今なら完全なストーカー行為だった。

 彼は空手4段だったが、韓国の乗馬のオリンピック選手で、広いアメリカで牧場経営する夢をもってアメリカにわたってきていた。「グッドラック」とお互いに言って別れたが、羨望の気持ちで眩しくて、2人の顔を直視できない。敗北感でいっぱいだった。何もいらない。美人さえいれば、勝利感に浸れる。そんな気がした。ヒスパニック系の白人娘は、東洋人のジョージ君には美しく思えた。長く憧れた魅惑の黒い瞳のスパニッシュ・ガールだった。ジョージ君の人生はまだまだ展望らしきものは見えない。

 バスでストックトンに向かった。1時間もすると、広大なサンホアキン・バレーに入った。英語でバレー(谷間)と言っても、670万へクタールもある、広大な大平原である。南北に780㎞、東西に広いところで220㎞ある。世界一豊かな農場地帯が広がっている。この盆地だけで、日本全国の耕作面積より広い。

 ちょうど3月初め、雨季シーズンだった。カリフォルニアの大地は、緑のじゅうたんが敷きつめられたようになっていた。時々、カリフォルニアの州花、カルフォルニア・ポピーの黄色い花も見えて、一年で一番美しい季節だった。憧れた地平線だ。

 戦前、長野から満州に渡った開拓団は、たった10町歩(10ha)の農場主を夢見て渡った。カリフォルニアの日系移民には、数百haどころか、数千haの農場主がいると話に聞いていた。

 バスから見える景色が珍しく、興奮しながら窓の外を見続けた。隣にいた中国人の女性はまったく目に入っていなかった。彼女から口を聞いてきた。

「どこに行くの?」
「ストックトンへ」
「私もそうなの、私は航空会社のスチュワーデスで、これから両親の家に行くんだけど、君はこれからどうするの?」
「知り合いの知り合いが、グレイハウンドのバス停に迎えに来るけど、深夜の11時になるらしい。彼はレストランの仕事で遅くなるので、10時間近くバス停で待つ予定でいる。」
「それは可哀想ね。私の家においで」
「ええ、いいんですか?」

 英語の実践さえできれば、どこへでもついて行く気持ちだった。彼女の両親の家について行った。郊外の中産階級の住宅だったと思うが、芝生のある、ずいぶん立派な家に見えた。

 着くなり、疲れからか、ジョージ君はソファでうたたねをしてしまった。目が覚めたときはもう夕方だった。彼女に起こされた。

「夕食よ」

 それは1カ月ぶりの米の飯だった。餃子、春巻き、八宝菜に似た食べ物があった。アジアの食事に飢えていた。元気が無かったのは、アメリカの食事のせいだったのかもしれない。急に元気が出てきた。彼らは新聞紙を部屋のコーナーに敷きつめ、チキンの骨だの、餃子の銀紙だの、食べられない物はどんどん投げ捨てた。これは日本人には真似できない、下品なマナーだった。

 私の怪訝な顔を見て、彼女は弁解がましく言った。

 「私の両親は中国でこのようにして育ったの…」

 ジョージは妙に安堵した。言葉も分からず、慣れない環境と立派な家に委縮していたのだ。マナーは気にしなくていい。東洋人同士の気安さもあった。つっかえ棒が取れ、激しい空腹感が襲ってきた。もう食べ物に、まっしぐらだった。炒麺(焼きそば)をかき込むと、アジア人であることに不思議な幸福感が湧いてきた。

 飯のことを考えると、白人女は駄目だ。メキシコ富豪の白人美人と結婚したキムは、人生最大の失敗をした。本当の勝利者は俺がなる。心のなかで何度もつぶやいた。

 午後10時になった。彼女がグレイハウンドのバス停まで送ってくれた。そこはダウンタウンに位置していた。酔っ払い、麻薬中毒者、失業者、多くの黒人たちがたむろしていた。

 このころは「黒人=恐ろしい人」のイメージで、右から左から手が出て、彼らは物乞いをした。それだけではなく、ケンカ腰でなにか、話しかけてきた。すべて無視し、30分待った。心細かった。

 会ったこともない「菅原さん」を待った。東京で職場の先輩がアメリカ帰りの同級生、深川さんを紹介してくれ、その彼がさらに紹介してくれたのが、菅原さんだった。一度だけ菅原さんに手紙を書き、返事をもらったことがあった。

 11時前に菅原さんと、彼の友達の前田さんがやってきた。前田さんはスポーツカーに乗り、白いスーツを着ていた。背が高くカッコよかった。一目で日本のエリートに見えた。菅原さんの車は中古の大型車だった。彼のアパートに行くのだと思っていたが、マンチェスターと呼ばれる、彼の知り合いのアパートに連れていかれた。後でわかったことだが、菅原さんは当時、彼女ができたばかりのようだった。

 マンチェスターのアパートは、3人の日本人留学生が住んでいた。彼らは私が来ることは知らなかったようだ。深夜の突然の訪問者に驚いていた。

 菅原さんは言った。

「浅野さんは、今日、オークランドの寮から出て、ストックトンにきた。住む家がないから、梅尾さん、しばらく泊めてあげて」

 一番年上の住人の梅尾さんは人の良さそうな顔をしていた。

 「ジョージ君、留学生はお互いに助け合わないといけないよ」と、心安く受けてくれた。アメリカにきて、本当に人様の親切が身にしみた。日本では我がまま放題、人の善意も親切もあまり意識したことが無かった男に、初めて感謝らしき気持ちが湧いてきた。

 梅尾さんは法政大学卒で、ブリヂストンタイヤに就職するものの、憧れの留学に挑戦。今は学生をしながらアメリカのバイキング・レストランでフライドチキンを揚げるシェフのアルバイトをしていた。

 ルームメイトになったコージ君は19歳、高校を卒業し、留学にきていた。この街に親戚がいるらしい。

 もう1人の学生は東京の医者の息子、誠君だった。やはり、受験で思う大学に入れず、白人と結婚したおばさんを頼って、この街にきたらしい。

 おばさんのご主人が、ここのデルタ大学のビジネス学部長というコネをもっていた。ジョージ君はここのアパートは1週間以内に引き払って、アメリカ人の家にホーム・ステイをしようと、心に決めていた。

    しかし結局、彼はここに1カ月も住むことになった。それまでのホーム・ステイといえば、タダで住まわせてもらって、食べさせてもらい、かわりに、留守番や庭掃除をする。
なおかつ、お小遣いを30~50ドルもらえることもあったらしい。ところが、1970年代にはいると、アメリカ経済も圧倒的な力強さはなくなり、製造業の衰退が始まっていた。そういう豊かな家庭はなくなり、ジョージ君のホーム・ステイ先は、なかなか見つからなかった。

 また、アパートの住み心地も良かった。お湯はいつでも出た。アパートにはプールもテニスコートも付いていた。このアパートには、生活保護を受けている人もたくさん住んでいた。当時の日本人には夢のような暮らしであった。

 東京での会社の寮生活は、経費節減で風呂が沸くのは、週4回だけだった。寮の食事も生きて行くのに必要なカロリー量だけだった。太れるはずがなかった。ここは生活保護を受けている人が車を運転し、プール・テニスコート付きのアパートに住む。信じられない光景であった。

 東京でのジョージ君は、マージャンで夜の1時半ごろ帰って水風呂を浴びるような暮らしだった。それでも世間並み以上の大企業であった。日米の経済格差というか、生活格差は歴然だった。

 ある日の深夜、突然、銃声が鳴った。遅くまで仲間たちと話し込んでいたが、すぐ飛び出した。またまた数発鳴った。人があちこちのアパートから出てきた。どうも夫婦げんかが始まったらしい。どちらかが銃を持ち出して、夜空に向かって撃っているようだった。アメリカ文明の洗礼を受けた。しかし、恐ろしいとは思わなかった。映画を見ているようで現実感がなかったのだ。

 これこそアメリカなのだと、そのとき、確信した。ジョージ君の運命に何が起こっても不思議でない。冒険はまだまだ始まったばかりだ。若さはすばらしい。何も怖くないのだった。

(つづく)

【浅野秀二】


<プロフィール>
浅野秀二
(あさの・しゅうじ)
立命館大学卒業。千代田生命保険相互会社(現・ジブラルタ生命保険株式会社)、JACエンタープライズ(米サンフランシスコ)で勤務。

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