【追悼】健重さん(姓・山本)早すぎたぞ!
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福岡金網工業(株)(福岡市博多区)の2代目社長(後に会長)である山本健重氏が17日に永眠された。享年80歳。脳梗塞を患い、この5年間は治療に専念されていた。故人との思い出が走馬灯のようによみがえってきた。
華奢と負けん気のバランス
健重氏にとって2代目のプレッシャーは相当大きなものであったらしい。
筆者と健重氏との付き合いは、かれこれ40年になる。健重氏が40歳のころ次のように漏らしていたのを思い出す。「20~35歳までは世間様の目を気にし過ぎていた。『健重さんが後を継げるのだろうか』と世間の人が腹のなかで笑っているのではないかと、疑心暗鬼に陥っていた」としたうえで、次のように語った。「世間様からの好奇の目を気にしなくて良くなるためには、経営者として経営の勉強に励み、自己研鑽するしかない」という結論に至ったのだという。 だから経営セミナーに積極的に参加して具体的な実績づくりに奔走した。古参社員たち(創業者の時代からの番頭)も健重氏が35歳になったころには健重氏に従うようになったという。健重氏は時々、駄じゃれを飛ばして周囲を笑わせていた。心底、ユーモア溢れる人物であったのだ。一方で負けん気は人の5倍持っていた。とくにテニスの上達にかける執念には兜を脱ぐしかなかった。
先手必勝の経営戦略
健重氏と親密になれたのは当社の専務(当時)であった中尾勉氏(故人)と筆者の愚妻・悦子(故人)が1944年(昭和19年)生まれで健重氏と同年であったことが幸いした。
健重氏の経営信条は「先手必勝」である。当社では「ISO取得」のコンサルを先駆的に行ってきた。その先陣として福岡金網工業はISOを取得した。まさしく福岡において先陣を切ったのである。
さらに「先手必勝」の事例を紹介する。2014年にインド進出に挑戦したのである。
1990年当時は「中国進出」がブームで、福岡、北部九州の中小企業者たちの「中国詣で」があった。2025年は一転して「インド詣で」の年になりそうである。恐らく筆者も2回はインドに経済視察に行くことになろう。健重氏はブーム到来前に先手を打っているのである。
旅の貴重な思い出
健重氏との旅を振り返ると楽しい思い出ばかりだ。09年、ドバイへのツアーに参加した。その際、圧巻だったのは「月の砂漠」でベリーダンスを披露してくれたことである。参加者はその踊りの様子を見て大笑いをした。
1999年4月に「再建屋」高塚猛氏が来福してくれたおかげで「福岡ダイエーホークス」が久しぶりに優勝した。その功労の恩返しにと「盛岡・安比」に視察に行った。安比高原で目の当たりにした健重氏のスキーの腕前には正直、感服した。
健重さん!現社長・山本崇裕氏が経営者としてすっかり成長されたことは承知されているでしょう!安心して旅立たれてください。
合掌。
法人名
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