世界史の転換を目撃する(前)~ 「大家」たちの敗北

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福岡大学名誉教授 大嶋仁

シリーズ『ドナルド・トランプとは何者か』第3回
 当シリーズは、さまざまな方面の専門家にドナルド・トランプの正体について語ってもらう。今回の第3回では、ヨーロッパの歴史・思想に精通する福岡大学名誉教授の大嶋仁氏が、トランプ政権の発足が引き起こす世界の転換について論じる。

 日本でも知られるエマニュエル・トッドは、世界的にも有名な人口統計学者である。人口の増減が社会と文化、さらには政治に決定的に作用するという視点から、世界情勢までも分析している。

 だが、昨秋日本語版が出た彼の著書『西洋の敗北』を読むと、論点が時代遅れのように思える。ほんとうにこの人はそこまで「偉い人」なのか、と首を傾げるのである。

 彼のいう「西洋の敗北」は、ヨーロッパがあらゆる面でロシアに敗北し、それに輪をかけるようにアメリカもまたロシアに敗北する、ということを意味する。だが、それを示す根拠が確固としたものとはいえず、得意の統計データの分析もやや粗雑に見える。

 何より不満なのは、彼がいまだに「西洋とロシア」という二項対立図式に引きずられていることだ。NATO史観から一歩も出ていないのである。こんな人が現代ヨーロッパを代表するのなら、ヨーロッパの先行きは暗いのではないか、と思う。

 トッドの論が間違っていることは、世界史の表舞台に再登場したトランプ米大統領がはっきり示している。トランプはまさにトッドのようなヨーロッパ人に飽き飽きし、「NATOなどくそ食らえ」というスタンスを露骨に示しているのである。

 この新大統領のロシアへの接近は、「冷戦時代はとっくに終わったぞ」というメッセージである。これについていけないヨーロッパは、旧いヴィジョンから抜け出せない動脈硬化の症状を呈していると言わざるを得ない。

 トッドに限らず、ヨーロッパ人の多くが、いまだにロシアを「西洋」から除外し、ロシアは自分たちとは違い、独裁主義を是とし、「自由」と「人権」を知らない野蛮人の国だと見ているのである。そして、そのような観点からウクライナを支持し、ロシアを侵略国家とみなすのだ。一体いつになったら、この妄執から脱することができるのか。

 ところで、トランプの再来でこれまでの持論が通用しなくなった「大家」といえば、世界的に名の知られているアメリカの政治学者、ジョン・ミアシャイマーも同様だ。『イスラエル・ロビー』でアメリカ外交の盲点をついたこの人は、『大国政治の悲劇』で大国どうしは必ず対立すると決め込んでいるのだが、そこにトランプの「取引」の論理に該当するものがないことが「敗北」の原因だ。トランプ時代には通用しない理論である。

 大国は必ず覇権争いをする。米ソの対決が終われば、米中が必ず対立することになり、世界史の「悲劇」は終わらない。これがミアシャイマーの悲観的理論である。ところが、そんなことにトランプは無頓着で、それとはまったく違うシナリオを書いてしまった。

 すなわち、大国間のイデオロギー対立などお構いなしの、金だけがモノをいう世界の現出。トッドにしろ、ミアシャイマーにしろ、トランプにはお手上げなのだ。一方のトランプからすれば、そんな学者先生は「クビ」だということになる。

 トランプについては、フランスの集団「シスミーク」の分析が優れているように思う。「シスミーク」とは「地殻震動」を意味する言葉で、現代は世界史の地殻震動の時代であり、その代表がトランプだという見方を反映している。彼らの主張はYouTubeで配信されている。

 彼らの分析は鋭利な刀の如く。それによれば、トランプ政権は世界のごく少数の大富豪によって支持され、メディアとAIに突出する企業が背後に控えているがゆえに、そこから生まれ出るのは世界全体の無秩序化だという。この分析がどこまで当たっているかはわからないが、私の印象では、一面で正しく、他面でなにかを見落としているように思える。はたして、トランプ旋風で世界全体が本当に変わるのか?そう単純には行きそうもない。

 西洋文明において「カオス」は歓迎されない。これを恐れ、あるいは忌避する人が大半であろう。一方、東洋ではインドにカオスを少しも恐れない宗教があるし、中国ではカオスこそ母であるという「無の哲学」がある。だから、西洋人ほどにこれを恐れず、トランプが出てきても、さほど動揺しないはずなのである。

 地震や台風に慣れている日本人にも同じことがいえ、トランプの予告不明性もそれなりに受け入れられる。新たな自然災害と見る向きもあろうが、これを「新風」として歓迎する輩もいないとは限らない。

 私個人はトランプ旋風を新鮮なものとして歓迎する。とはいえ、その金権政治がメディアとAIとからむ以上、文化にとっては大敵だと思っている。経済力が唯一の価値観となれば、文化を守りたい人間はよほどの覚悟が要る。

 トランプが全世界にはびこる「偽善」を一掃してくれるのはいいことだ。しかし、「善」まで一掃されたら、かなわない。イデオロギーへの恭順が倫理の保証にならないことを示した点で、彼の功績は大きい。だが、それだけでは不十分だ。

 どうやら、私たち一人一人が己のみを頼りにしなくてはならない時がきているのである。

(つづく)

第2回

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