【連載8】トランプ関税の衝撃:自動車業界~日産の米国での栄枯盛衰の歴史(後)
シリーズ『ドナルド・トランプとは何者か』の第8回
「アメリカがくしゃみをすれば日本は風邪を引く」。日本の経済が米国と密接に結びついていることを映した名文句だ。米国で起きた現象は日本列島を揺さぶる。世界をパニックに陥れたトランプ関税は、日本の基幹産業である自動車業界を痛打する。なかでも経営が悪化している日産自動車にとっては死活問題だ。日産の米国での栄枯盛衰の歴史を振り返ってみよう。(文中の敬称は略)
攻めの石原、「打倒トヨタ」を宣言
1977(昭和52)年6月、石原俊は、やっと社長になった。やや遅咲きだったが、派手なデビューぶりだった。「打倒トヨタ」を掲げて颯爽と登場し、“攻めの石原”と、全国紙や経済誌は一斉に報じた。
190㎝近い巨漢で鋭い視線をもった石原は、「サニー」をヒット商品にしたこともあって、メディアにも受けが良かった。社長就任から3カ月後、石原は本社勤務の全社員を集めて、こう宣言した。
「私は2年後に国内販売シェアでトヨタを抜いて、日産を日本一の会社にしてみせる」
しかし、見果てぬ夢に終わる。新車開発には最低4年の期間が必要だが、この当時の日産には、新製品によるシェア拡大は望むべくもなかった。日産には資金の余裕がなく、販売店への報奨金が用意できなかった。報奨金なしで、販売店にシェア・アップのノルマだけを課すと、販売店をないがしろにした無茶苦茶な拡大方針が、すぐに販売シェアに跳ね返ってきた。石原の就任時に30.1%あった国内販売シェアは、翌年には28.8%に低下。シェア拡大路線はあえなく挫折した。トヨタを抜くどころか、差は拡大した。
国内販売の失敗を取り戻すべく、石原は方向を大転換する。新しい経営方針「グローバル10」を打ち出した。これは、世界の自動車販売における日産のシェアを10%に引き上げるというものだ。この攻めの経営方針が、その後、10年近く続く労使対立の火種となった。
「フェアレディZ」の功労者・片山豊への嫉妬
「グローバル10」を達成するため、石原は、2人の男の封殺に全力を挙げる。1人は、米国市場開拓の最大の功労者である片山豊である。石原が社長になると、片山の名前を口にすることはタブーとなった。スポーツカー「フェアレディZ」の大ヒットを飛ばしたことで片山の名声が高まるほど、石原との亀裂は深まった。石原は、片山を本社の役員にしなかっただけでなく、とうとう日産から追い出した。
1981(昭和56)年、石原は「DATSUN」ブランドを廃止し、世界統一ブランドとして「NISSAN」とする方針を打ち出した。片山を思い出させる「DATSUN」を葬り去ったのである。さらに、若者向けにつくっていた「フェアレディZ」の「Zカー」を高級車へと衣替えしてしまった。「フェアレディZ 」の生みの親である片山は、「ブランドはユーザーのもの。売る側の都合を押し付けてはいけない」と述べている。まさに至言である。
「DATSUN」を使わなくなったため、全米で日産のクルマは販売不振に陥り、経営が悪化した。片山の名声に嫉妬した石原の失政のツケは、実に大きかった。
米国進出で労組のドン・塩路一郎と激突
石原は、もう1人の男の抹殺に全精力を注ぐことになる。日産労組を牛耳り、労働界全体にも巨大な発言力をもつ“天皇”塩路一郎を叩き潰すことである。
「日産大争議」で組合潰しのために送り込まれたのが、銀行出身の川又克二とスト破りの若者・塩路一郎。喧嘩屋といわれた塩路はすぐに本領を発揮し、御用組合で頭角を現して第一組合を潰した。生え抜き組による川又追い落としの策謀も塩路が粉砕した。
川又体制下では、人事・労務部門は塩路派の巣窟と言われるようになった。川又は生産・販売戦略に注力するために、人事を塩路に丸投げした。銀座のクラブで、日産の労務担当重役が直立不動で「塩路天皇」を出迎えたという逸話も残っている。
「塩路vs石原」対決の行き着く先は、人事権を誰が握るかであった。石原が社長になったのだから、石原が人事権を握るのが当然である。労使協調路線の名を借りた労組(=塩路)の経営介入がある限り、日産に21世紀の繁栄はないと考えた石原は、塩路から人事権を奪取することを決断した。
乗用車かトラックか
~塩路と石原の米国進出をめぐる攻防
この時期、石原は人事権を掌握したいと考え、塩路は米国進出を狙っていた。塩路は当時、米国に乗用車の生産拠点を造りたいと考えていた。この工場の労働者がUAW(全米自動車労組)に加盟することで、塩路は国際的な自動車労組の指導者になる野望を抱いていた。塩路の若いころからの友人たちがUAWの幹部になっていたことも多分に影響した。
1980(昭和55)年1月、石原は米国での現地生産計画を発表した。石原は塩路の後ろ盾である川又の支持を取り付けて、塩路の野望を打ち砕いた。塩路が主張した乗用車ではなくトラックの生産拠点を設けることにし、UAWを排除した非組合の工場にした。
小型トラック工場は米テネシー州に建設され、1,800億円の巨費が投じられた。石原は21世紀を見据えた長期ビジョンに基づいて米国進出を決めたわけではなかった。塩路をこれ以上増長させないための米国進出である。近視眼的な決定の後遺症は、実に大きかった。
石原が米国で乗用車を生産しなかったため、米国工場をドル箱にすることができなかった。このとき乗用車をつくっていれば、当時、世界最大の自動車市場だった米国で、他の日本メーカーのように稼ぐことができたのに、塩路の案だという理由で乗用車を忌避したのである。米国工場でのビッグプロジェクトを脱線させた責任は重い。経営者失格である。今日に至るまで日産が米国市場でトップ3に入ることができないのは、最初にボタンの掛け違いがあったからにほかならない。
3人の暴君の立ち位置
〈1986(昭和61)年3月、日産の前会長の川又克二は動脈りゅうを患い、危篤状態で病院にかつぎ込まれたが、1週間後に81歳で死去した。日本の新聞は、彼は日本の近代自動車産業の生みの親の1人だったと誉め称えた。葬儀・告別式は、家族や親しい友人のためのプライベートのものと、大がかりな公式ものと2度行われた。
葬儀の責任者は、川又の仕事の上で最も親しかった仲間であり、川又の権力の源泉だった塩路一郎を招待するかどうかで頭を悩ませた。普通なら塩路は公式の告別式で弔辞を読んでもおかしくない。しかし、これはまずい。塩路は最近権勢を失っており、経営陣は彼の参列を望まなかった。日産会長の石原(俊)は代理人を通じて、参列したら『フォーカス』や『フライデー』のカメラマンに追い回されるだろう、と塩路に警告した。
塩路はこの警告を受け入れ、川又の火葬の場にだけ参列した。しかし、告別式で弔辞を述べた人たち、興銀の中山素平や経団連の稲山嘉寛、日産の石原らは、いずれもいろいろの意味で故人のライバルであり、しばしば全力を挙げて川又のやりたいことを妨害した連中だ、ということを塩路は興味深く眺めていた〉
ノンフィクション作家、デイビット・ハルバースタムは『覇者の驕り 自動車・男たちの産業史』(日本放送出版協会刊)で、川又の葬儀の際の塩路と石原の立ち位置の違いをこう描写した。
(了)
【森村和男】