『S病院老人病棟の仲間たち』とその後

大さんのシニアリポート第144回

 拙著に『S病院老人病棟の仲間たち』(文藝春秋社、1988)がある。私にしては良く売れ、3カ月で三刷を記録している。後に日本テレビでドラマ化(同名のタイトル 主演:佐野史郎、若村麻由美)された。37年前の作品を紹介したいと思ったのは、介護保険ができたのが西暦2000年。その20年も前の介護の現場が、介護する方もされる方ものんびりと、いかに人間臭かったかを報告したかったからだ。

46年前には介護施設は皆無、面会人もヘルパー要員

『S病院老人病棟の仲間たち』(文藝春秋社、1988)    私が結婚したのは1979年5月14日。山形にいた母が倒れたため、妻をともなって帰郷した。看病のためである。それも必要最小限の家財をトラックに積み込み、助手席に乗り込んでの破天荒な帰郷となった。よく妻が同意してくれたものだと今さらながら思う。

 当時(46年前)山形には特別養護老人ホームが4年前に開設されたばかりという有り様。認知症という呼び名はなく、すべて「痴呆症(呆け)」と呼ばれた(認知症と呼ばれるようになったのは介護保険法が改正された2005年以降)。当然介護施設は皆無で、ショート・ステイがスタートしたのは1986(昭和61)年である。

 山形では寝たきり老人は「在宅介護(家で看る)」が当然という考え方が支配していた。痴呆症の老人を精神病棟に入れるのが当たり前の時代。しかし家族が一時的にもせよ精神病院に入れようとすると、「親を精神病院に入れるとは親不孝者」と陰口をたたかれた。他人の目を避けるため、鍵のかかる部屋に閉じ込める(いわゆる座敷牢)という家族もいた。その寝たきり老人を看るのは、長男の嫁と決められていた。当時の山形は有数の低所得県だったので、共稼ぎの家庭が圧倒的に多かった。義父や義母が寝たきりになると、泣く泣く嫁が仕事を辞めて看病にかかりっきりになった。これを山形では「看たもの貧乏」といった。この貧乏くじを引くのが長男の嫁と決まっていたため、長男に対する嫁不足が深刻さを増した。

 脳梗塞を患った母がS病院の老人病棟に入院できたのは幸運だった。「老人病棟」といったが、「老人病棟」というのは正式な呼称ではない。介護できない途方に暮れた家族の窮状を「入院」というかたちで引き受けたのである。当然のこととして介護専門の職員はいない。看護婦(現・看護師)とヘルパーだけだ。人手が極端に足りない。だから面会に出かけた人にも手伝う義務を生じさせた。見るに見かねて面会人が手助けする。今なら排便からおしめ交換から食事介助まで病院(施設)側が完全に取り仕切る。面会の家族には指一本触れさせることはない。当時は逆で面会人にも助けを求めた。そこに入院患者と面会人、病院関係者(看護婦、ヘルパー、事務員)との間に奇妙な連帯意識が芽生えた。

妻、尻押しに奮闘す!

イメージ    私の結婚を一番歓迎したのは倒れた母だろう。初めて面会に出かけた母親の口から出た言葉にあぜんとさせられた。いきなり妻に対して、「ねえ、しぼてけねが」といったのである。山形弁丸出しの母の言葉に妻はキョトン…。「しぼてけねが」とは、「絞って欲しい」という意味だ。母の難敵は便秘だった。これまでも自家製の「特製酢」(酢を蜂蜜で割った)も、病院で出される漢方薬「大黄末」も特段の効果はみられなかった。そこで、直接患部(この場合は尻)を押して(絞って)出してほしいということだ。結婚二日目の妻に、「尻を絞れ」と要求したのである。「いきなりおしめカバーを外せ。外すと、お尻をくるり、と横にして、まひしていない右手で押してほしい部分を指さすのよ」と妻はあきれ顔。尾骨の蒙古斑のできるあたりを、指がガタガタになるまで押した。すると、あれほど出し渋っていた頑固者がほんの少し顔を出す。すかさず妻がティッシュで拭き取る。これを延々と続けさせるのだからたまったものではない。妻は頑固者を「ホロ」と呼んだ。「そのホロがね、なかなか出てこないの」といって笑った。面会に来るたびに「ホロ取り」をやらされた。

 病院側も見て見ぬふりをする。人手が圧倒的に足りないのだから当然と考えていたようだ。それどころか、介護に対する熱量とスキルを見極めているようで、やがてヘルパーがやる仕事の補助員という空気感が生まれる。介護スキルをヘルパーに褒められる。喜ぶ妻。妻が職を得ると面会は私に丸投げされた。物書きというのは、年中時間があり余っていると見なされる職業だ。基本的に毎日、それも朝、昼、晩と面会に出かけた。妻から私へのバトンタッチ。すかさずヘルパーが私を指導する。スキルがアップしていく。やがておしめの交換などは朝飯前に。こうなるとヘルパーとの距離が一気に縮まる。看護婦もまた様子をうかがいながら適切なアドバイスをくれる。たとえば「尻押し」も、再発の危険性があるので、母の体調不良時にはストップがかかる。毎日病室に顔を出すのだから、病室にいる5人の入院患者とも仲良くなる。母に対する単なる面会人が、やがて6人部屋のアイドルとなる。34歳のアイドル。アイドル名は「髭の旦那さん」だ。やがて部屋の様子、とりわけそれぞれの入院患者の性格から、家族の様子まで浮き彫りにされる。そこにさまざまな「事件」が起きる。それをまとめたのが拙著だ。

「面会は百の薬よりも効く」というが…

イメージ    「面会は百の薬よりも効く」というのが院長の口癖である。介護施設が皆無の当時、手のかかる「寝たきり老人」(主に嫁ぎ先の義父母)を「入院」という世間の納得を得られる形(手段)でS病院に「隔離」した家族も多くあった。当然ながら面会には来ない。何かと理由をつけては拒絶する。S病院では「病院洗濯」「自宅洗濯」が選べた。しかし、面会に来ない家族には「自宅洗濯」を強要した。こうすることで面会する機会を増やし、入院患者とのコミュニケーションを図るという目論見があった。だが、それでも面会に来ない家族はいた。

 S病院は常に満床である。帰宅できるまでに回復した患者には退院を促すが、家族が拒否する。直接の原因は、家族構成の変化にあった。子どもが成長すると、かつて患者(義父母)が使っていた部屋は子どもたちの部屋になる。彼らの帰る場所がない。自分が建てた家に帰ることができない。離れをつくる費用も気持ちもない。できたばかりの特養は常に満杯で、「東大に入るより難しい」(「A荘」責任者)時代。仕方なく病院をたらいまわしする。何より患者(義父母)のいない生活に慣れた家族にとって、彼らはすでに「他人」なのだ。

 こんな家族もいたと看護婦のWさんから聞いた。この老人病棟にやっとのことで入院できた家族が、ベッドに横になり血圧や体温を計っている90歳になる父親の耳元で、こうつぶやいたという。「爺ちゃん、え(良)がったなあ、こんないい病院で。爺ちゃんの死ぬ場所はこごなんだからなあ。もう家さ帰らんないんだからな」という家族の声を耳にしてあぜんとしたという。老人病棟は「姥捨て山」「爺捨て山」と考える人がいた。あれから46年。多くの介護施設がつくられ、入所者で溢れかえる。高齢者は納得して入所したのだろうか。入所させる家族はどうなのだろう。確かに長寿社会にあって、施設の利用はありがたいことだと思うのだが・・・。

    最後に出色の話を1つ。東北の冬は寒く、当然病室の窓は閉じられる。ある冬の朝、母と同室のS婆さんから窓を開くよう懇願された。理由を聞くと、「天皇陛下は私の亭主になる男だったんだ。それを皇后が横取りしたんだ。窓開けておかないと、天皇陛下雲に乗って入ってこれないべ」「天皇陛下が逢いに来るの」「んだ、あの人も私さ逢いたがっているんだ。可哀そうな人なんだ」といって嬉しそうな顔をした。どんなに呆けていても、本人が幸せを感じているならそれでいいと思った。面会人が入院患者の排便からおしめ交換、食事介助までしてもいい、のんびりとしたいい時代があった。いい経験をさせていただいたと感謝している。


<プロフィール>
大山眞人(おおやま まひと)

 1944年山形市生まれ。早大卒。出版社勤務の後、ノンフィクション作家。主な著作に、『S病院老人病棟の仲間たち』『取締役宝くじ部長』(文藝春秋)『老いてこそ2人で生きたい』『夢のある「終の棲家」を作りたい』(大和書房)『退学者ゼロ高校 須郷昌徳の「これが教育たい!」』(河出書房新社)『克って勝つー田村亮子を育てた男』(自由現代社)『取締役総務部長 奈良坂龍平』(讀賣新聞社)『悪徳商法』(文春新書)『団地が死んでいく』(平凡社新書)『騙されたがる人たち』(講談社)『親を棄てる子どもたち 新しい「姥捨山」のかたちを求めて』『「陸軍分列行進曲」とふたつの「君が代」』『瞽女の世界を旅する』(平凡社新書)など。

第143回

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