竹原信一緊急寄稿(5)権威と愚かさ ― 支配の心理と精神の奴隷制

阿久根市議会議員 竹原信一

 中央政界が新たな転換点を迎え、政治構造が大きく揺らいでいる。そんななか、かつて鹿児島県阿久根市政を刷新し、地方から政治のあり方を問い続けた竹原信一氏から緊急寄稿を頂いた。

 日本の民主主義の在り方に大きな疑問符を投げかけてきた異色の元市長が、中央政界の激変に直面した日本国民に向けたメッセージを、連載してお届けする。

Ⅰ 権威とは何か── 「知と信頼の源泉」から「支配の形」へ

 権威(authority)とは、ラテン語の「auctoritas」=「増やす」「創造する」に由来する。本来の権威とは、人々を高める力であり、知識や人格、経験、信念によって自発的に敬意を呼び起こすものであった。それは支配ではなく信頼の結晶であった。しかし現代において、権威は「支配の正当化装置」へと変質した。学問も宗教も政治も、真理を導くためではなく、反論を封じるために権威を使う。人々が自ら考えることを放棄した瞬間、権威は尊敬ではなく服従の象徴となる。

Ⅱ 権威と愚かさの共犯関係

 権威は愚かさを必要とし、愚かさは権威を必要とする。愚かさとは単なる無知ではなく、自らの判断を放棄し、他者に思考を委ねる態度である。そのような人々が増えるほど権威は安定する。だから権威は、教育による覚醒ではなく、従順による秩序を好む。愚かさの側もまた、恐怖と不安を避けるために権威に依存する。不確実さや責任を他者に預け、安心という名の檻のなかに生きる。こうして権威と愚かさは互いを正当化し、依存のスパイラルを形成する。

Ⅲ 本物の権威と偽の権威

 真の権威者は、人を従わせるのではなく「あなたはどう考えるか」と問いを開く存在である。知識や地位によってではなく、沈黙のなかで真実を共に探す姿勢にこそ権威が宿る。権威の本質は支配ではなく責任である。対して偽の権威は沈黙を強いる。学者が言葉を守るために真理を歪め、宗教者が信仰を守るために神を裏切り、政治家が秩序を守るために人間を犠牲にする。偽の権威は、服従によってしか自らを維持できない。

Ⅳ 権威を超える知性

 私たちが目指すべきは、権威を否定することではなく、権威に依存しない知性である。それは、自分のなかに問いを持ち続ける力であり、不確実のなかに立つ勇気である。権威に従う社会は安定するが、思考する社会だけが成長する。自由とは、権威に抗うことではなく、真理に誠実であることだ。

Ⅴ 結語── 権威のない世界の希望

 権威の崩壊は恐ろしくもあるが、それは人間が自らの良心と理性に戻る機会でもある。権威を崇める文明は沈黙に向かい、権威を問う文明は自由に向かう。自由とは、従うものを失っても、自分を裏切らないこと。真の文明は、権威を超えて、自ら考える人々によって築かれる。

(つづく)

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