【読者プレゼント】『日本文化は絶滅するのか』~日本が「滅び」ないためには
福岡大学名誉教授 大嶋仁
日本文化は絶滅の危機にあるのか
つい最近、私は『日本文化は絶滅するのか』(新潮新書、2025)という本を出した。私の見るところでは、「日本文化」は「絶滅の危機」にひんしているからである。
このような論は決して珍しいとは思われない。夏目漱石の『三四郎』には、「広田先生」という人物が登場し、その先生は、「日露戦争に勝った」といって喜んでいる国民を尻目に、「日本は滅びる」と言っている。
だが、当時と違って、「日本が滅びるのではないか」と感じている日本人は、今のほうが多いのではなかろうか。最近ローマ法王に選ばれたレオ14世は、人類全体にイエスの教えである「福音」を伝える姿勢を見せているが、この法王には「第三次世界大戦」勃発への危惧があり、「人類の滅亡」が直感されているのだ。
日本の滅亡と世界の滅亡を私が重ねるのは、日本が世界のバロメーターだと思うからではなく、「世界の崩壊」が日本に端的に表れていると思うからだ。世界全体が目に見えない潮流に翻弄(ほんろう)され、人類は本来の知恵を失い、右往左往しており、それが日本にも反映しているのである。仮にも日本人が己の文化の価値を自覚し、それを世界に向かって表現できるならば、世界にとって、人類にとって、それは大きな意味をもつ。
ところで、「日本は滅びる」という言葉を発信している人として、伊藤貫という評論家がいる。彼の発言はYouTubeを通じて見聞きできるのだが、在米生活40年の彼が言っていることは、「至極まとも」に聞こえる。
その「まとも」さは、彼の分厚い教養からきている。古今の欧米の書物を深読みしてきた「洋書漬け」である彼は、西洋思想を日本式に「換骨奪胎」することなく、本物の思考力を培ってきた。
その彼が、しきりに「日本は滅びる」と言っている。なぜそういうのかといえば、「日本人は思考していないから」というのが答えである。なにも「洋書を読め」と言っているわけではない。彼が推奨するのは東西の「古典」である。西洋ならプラトンやアウグスティヌス、東洋ならブッダ、あるいは司馬遷の『史記』。それに、近代ヨーロッパの政治思想の書を加えて、彼は「古典」と呼んでいる。
彼の考え方からすると、「古典」を知らず、宗教も哲学ももたない人間には「思考力」がない。そういう人間が「政治」をやっても、何ら成果は得られない。日本の政治家には哲学がないから価値観も定まらず、その結果、表面的な政策論しか出てこない。彼がいう「日本は滅びる」は、そういうところからきている。
独立なき国家、思考なき政治
彼に言わせれば、戦争に負けた1945年以来、日本政治は「独立性」を失って、アメリカのいいなりになっている。ところが、そのアメリカは「多数派の独裁」に陥っており、健全な思想を育てていない。そのような国が「有事の際」に日本を防衛するなどあり得ない。なのに、日本の政治家には「古典」の教養もなく、哲学も宗教もないから、世界史を読む力がない。だから、「日本は滅びる」のである。
このように見る伊藤からすると、日本が滅びないためには、政府は己の立場を明確にし、アメリカからの「独立」を勝ちとらねばならないことになる。そのためには憲法を改正し、正規の軍隊をもち、国際政治の原則である「力の均衡」に従って、「核兵器」をもつべきということにもなるのである。はたして、この論は正しいか?
先に私は「彼の考えは至極まとも」と言ったが、彼の用いる「力の均衡」という考え方には納得できないものがある。確かに人類史にはそうした側面はあるのだが、それだけで人類の現在と将来が決まるわけではない。
また、彼の考え方は「普遍主義」的に過ぎて、日本固有の性格、その社会と文化の持つ独自性を無視しているように思える。それもそのはず、彼は「日本」を「文化」としてではなく、「国家」として見ているのである。
文化的共同体としての日本の実相
彼のいう「国家」とは、「主体性」をもって世界に君臨する権力組織の意味である。彼は日本をそういうものと見なし、たとえばイギリスやフランスと同列に見ているのである。私に言わせれば、これは正しくない。
日本がそのような「国家」であったことは、今まで一度もない。日本を「国家」にしようとしたのは明治政府であるが、それが十分成功しなかったことは歴史が証明している。国家が成立する前提は「国民」の存在である。その「国民」というものが、日本にはできていない。
日本を1つの国だとしても、その基礎はさまざまな共同体にあり、その断片が寄り集まっているに過ぎない。かつて村落共同体であったものが地域共同体となり、さらには職場や企業を基盤とした共同体となる。しかし、それらが互いに連携しあって1つの全体を成しているかというと、中央に強い権力がないために、それはない。これは「いいか、悪いか」の問題ではなく、事実である。
そういうわけだから、仮に伊藤が望むように日本が軍事的に「独立」できるようになったとしても、それを支える国民性が育成されていないがゆえに危険である。昭和史が示したように、軍隊が「勝手に振る舞いかねない」。
私の意見は、かつて福沢諭吉が言ったように、「日本人一人ひとりが個の独立を達成しなければ、国の独立などあり得ない」というものだ。重要なのは、国民性の育成なのであって、「正規の軍隊をもつか、否か」ではない。
文化を再生する「英学」導入のすすめ
私からすれば、「国体(=国家の体裁)よりは文化を守れ」である。日本人は見失った己の文化を見つけ出し、それに沿って生きるべきなのだ。それができて初めて、その文化を守りたいと思うようになる。その時こそ、日本人は「国民」となる。
日本文化とはどういう文化なのかということについては、冒頭で述べた拙著で細かく述べているので、ここでは述べないことにしたい。そのかわりに、ここでは日本人が己の文化を再発見するために必要なこととして、その本のなかでは述べきれなかったことをここで述べておく。
ひと言でいえば、「文化改革」である。徳川幕府が漢学を徹底導入したのにならって、日本政府は「英学」を徹底導入すべきなのだ。
日本語の現状を見ると「カタカナ言葉」だらけである。まるで日本語だけでは「現代人」になれないかのようだ。そうであるならば、まともに英語で考え、まともに英語で表現する方法を身につけ、世界の思想をじかに吸収したほうが良い。それができたときにこそ、伊藤貫のいう「思考力」が育つはずである。
世界を知ることで文化の輪郭が見える
私自身のことをいえば、現代世界の思潮をつかむ手っとりばやい方法は、YouTubeを見ることである。その場合、英語がわかれば世界各地の情報を得ることができる。そのおかげで、たとえば、新ローマ法王レオ14世が何を目指しているかなど、ずいぶんと学んでいる。
「英語をそこまで身につけたら、日本古来の文化が衰えるのでは?」という危惧が生まれることはわかる。だが、実際はその逆で、英語を通じて入ってくる「世界」が見えれば見えるほど、「日本文化」の長所も欠点も見えてくるのである。そうなれば、この文化の何を守るべきか、それも見えてくるはずだ。
おそらく政府はこうした私の提案を一笑に付す。多くの知識人も、また然りだろう。しかし、この文章を読む人のなかには、自らの意志で、これに取り組む人が出てくるかもしれない。そういう読者を期待して、稿を閉じることにする。
(了)
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