【異色の芸術家・中島氏(35)】稀代のプロデューサー、蔦屋重三郎の光と影

 福岡市在住の異色の芸術家、劇団エーテル主宰の中島淳一氏より、今年放映されたNHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』の主役、蔦屋重三郎について寄稿していただいたので掲載する。

1人の書肆(しょし)にして、江戸文化の黒幕

 江戸後期、寛政の改革の空気が町を覆い、倹約と統制が支配する時代に、それでもなお花開いた文化があった。それが、後に「化政文化」と呼ばれる爛熟の輝きである。

 その中心に立ち、火種を撒き、才能を抱き、時に焚きつけ、時に燃えつきて消える芸術家たちを後押しした1人のプロデューサーが存在した。蔦屋重三郎。「版元」「出版業者」という言葉では意味が浅すぎる。商人であり、編集者であり、キュレーターであり、プロデューサーであり、そして文化という巨大な舟の操縦者。現代の芸術とメディア産業を跨いだ総合プロデューサーの原型といってよい。

 彼の店・蔦屋は吉原に近かった。だからこそ得られた情報と人脈、そして街の色気。吉原は単なる遊郭ではなく、文化の発信源であった。美女、金、権力、噂と陰謀、そして芸術。蔦屋はその渦の中心に店を構えることで、江戸の精神を最前線で受け止めた。彼は吉原の妖しい空気を紙に封じ込めた。肉声の匂い、湿った欲望、夜の熱、それらを浮世絵と戯作に変え、文化として循環させたのである。

才能の磁場としての蔦屋

 蔦屋の周囲には、後世が教科書で語る天才が集った。

 東洲斎写楽、わずか10カ月、わずか百数十点の作品を残し消えた謎の絵師。喜多川歌麿、町の女性を新しい美の象徴へ高めた絵師。山東京伝、洒脱な戯作の担い手。滝沢馬琴、後の『南総里見八犬伝』の巨星。そして名の無き者たち、今は失われた絵描き、作家、文人たちも含め、蔦屋は無数の芽をすくい上げた。彼は単に作品を売ったのではない。才能の公共性をつくるという営みを行った。

 江戸の町人文化は、権力者の後ろ盾をもたない。武家の画壇のように格式もない。ゆえに、才能は商品という現実的形態を通して初めて生きた。蔦屋はそこに美学と商才を融合させた。才覚のある芸術家を見抜き、題材を提案し、価値を演出し、人々が「買う」だけでなく「語る」ことで文化が育つ回路を完成させた。今でいうなら、蔦屋は編集者であり、広告代理店であり、ギャラリストであり、SNSの発信者の役割をすべて担っていた。

 江戸の都市文化は爆発的に流通し始め、多くの庶民の生活に浸透していった。蔦屋という存在は、文化を「閉じた芸」から「共有される快楽」へと変えたのである。

『写楽』という事件

 蔦屋の頂点は、おそらく写楽の登場である。写楽は突然現れ、突然消えた。能役者か、狂言師か、謎は尽きない。しかし重要なのは、写楽とは、蔦屋が仕掛けた文化の仕組みそのものの象徴であったことである。

 写楽の役者絵は、単に人物を描写するのではない。演者の内面の緊張、虚構と現実の狭間、芝居の空気の振動、それらを誇張と省略のなかに刻み込んだ。それは浮世絵ではなく、心理学的肖像画であり、演劇批評であり、視覚化された都市の精神であった。しかし、その都市の精神とは、爛熟の陰に潜む毒でもある。人は刺激に慣れ、より強い刺激を求める。権力は表現の自由を脅威と感じ、検閲を強める。写楽はまるで流星のように光り、そして沈んだ。それは、天才の短命などではなく、時代そのものの限界だった。蔦屋の光の絶頂にして、その影の始まりでもあった。

商人の矛盾──文化の自由と統制の谷間で

 蔦屋重三郎の影は、彼の情熱と同じ深さで存在する。出版文化が拡大し、人々の心をつかむと、同時に幕府の統制が強まった。江戸後期、とくに松平定信による寛政の改革は、奢侈と遊興を敵視し、風紀と倹約を政策の理念とした。

 蔦屋は「吉原」「艶本」「風俗画」の出版を多く担った。それは人間の欲望の記録であり、都市の現実であり、芸術の滋養でもあった。しかし権力から見れば、それは風紀を乱す危険と映る。蔦屋はやがて摘発され、罪に問われ、罰金と営業停止の処分を受けた。文化を商として扱う者の宿命。「売れること」と「残ること」は一致しない。「人を解放する表現」は、時に権力と衝突する。蔦屋はその狭間で綱渡りを続けた。芸術の価値を信じながら、欲望という泥の川に足を浸し、未来を見据えながら、今日の金を確保しなければならない。

蔦屋重三郎が残したものは「名」ではなく「場」

 蔦屋自身の作品は残らない。しかし、彼が生み出した「場」は残った。写楽の影には歌麿が、歌麿の影には北斎が、北斎の影には国芳が、そして浮世絵は海を越え、ゴッホやモネの目を奪い、やがて世界美術史の地図を塗り替えていく。

 蔦屋の功績は「作品」ではなく、「回路」を創ったことだ。芸術が人々と出会う回路、社会を揺らす回路、未来へ届く回路。良き作品は、ただ「つくられた」だけでは成立しない。良き作品は、「届けられた」瞬間に文化となる。現代のプロデューサー、編集者、プロモーター、芸術監督、あらゆる創造の中継者は、皆、蔦屋重三郎の末裔である。

光だけを愛する者は、芸術の半分しか見ていない

 蔦屋の生涯には、光と影が等しく寄り添う。彼は商売の才覚によって芸術を持ち上げたが、芸術はしばしば商売を置き去りにする。文化は栄えるが、個人は必ずしも報われない。名は後世に知られても、晩年は静かで、孤独である。だが、それでも蔦屋重三郎は幸せな人生を送ったのだ。なぜなら、彼は他者の才能を信じたからだ。そして人を見る目だけではなく、人を信じる力をもっていたからだ。

 芸術とは、信仰に似ている。未来が見えない時に、見えると信じる行為。理解されない時に、それでも語り継ぐ行為。まだ芽吹かぬ種を、太陽に向けて埋める行為。蔦屋は、自らの名を輝かせることよりも、誰かの才能の火を護ることを選んだ。そこにこそ、稀代のプロデューサーの矜持がある。

文化とは、光と影の両方で燃える炎である

中島淳一氏
中島淳一 氏

 蔦屋重三郎の生涯は、成功の物語でもあり、警告の書でもある。才能を世に出すことは希望であると同時に、責任と危険をともなう。しかし、人はそれでも文化を求める。なぜなら、人間は、パンと同じくらい物語を必要とする。人間は、衣服と同じくらい美を必要とする。そして人間は、光と同じくらい影を必要とする。文化とは、光だけで燃える炎ではない。影があるからこそ、その火は深く揺らぎ、揺らぎがあるからこそ、時代を照らすことができる。

 蔦屋重三郎──その生涯の光と影は、今の我々の芸術にもなお、問いを投げかけ続けている。「あなたは誰の才能を信じ、その炎に手をかざすのか」と。その問いに向き合う者こそ、蔦屋の系譜に連なる者なのである。

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