福島自然環境研究室 千葉茂樹
資料の電子データ化―膨大な時間と手間
私は、このような文化遺産(資料)は、現物の保全とともに「電子データ化」も重要と考えている。このため、持ち出した資料の「電子データ化」を行っている。電子データ化作業とは、スキャナーを使い電子画像にすることである。
私の電子データ化作業の概要を紹介する。まず、高性能スキャナーを使う。高性能スキャナーの新品は高額なので、私は中古品を購入し、分解・清掃・調整して使っている。スキャナーは2種類で、片方は文書用、片方は絵画用である。文書用は、色再現は劣るが高速スキャンできる。一方、絵画用は低速であるが色再現がよい。
今堂医院の資料のスキャンは文書用スキャナーで行っている。解像度は24bitカラー・600dpiである。できる限り高解像度が望ましいが、高解像度ではスキャン速度が遅くなる。時間と解像度の兼ね合いである。なお、解像度600dpiのスキャンでも時間がかかる。1箱には文書が300~400通入っており、一日中スキャンしても3日を要する。
これでできた電子データは佐藤清一氏にお渡しし、現在、佐藤氏および佐沼古文書の会の会員が分析(解読)を行っている(画像4)。
なお、私は「このような資料は私物化すべきでない」「地域の財産とすべき」と考えている。一関市博物館の相馬氏にも、「電子データは佐沼古文書の会の分析後に、一関市博物館にもお渡しする」とお話しした。 防犯のために書くが、古文書は某所に保管しており、私は作業の度に持ち出している。私の岩手の家にはない。
一関市博物館のすばらしい仕事
持ち出した今堂医院の古文書(資料)は、前述のようにミカン箱で23箱である。古文書数は、単純計算すると持ち出したものだけでも約9,000通、持ち出せなかったものを含めれば約2万通となる。
箱の外側には「箱の通し番号」「内容物の説明」を書いた整理票が貼りつけてある。箱の内部は、古文書が1通ごとに封筒に入れられ、その封筒には「古文書の通し番号・宛先・差出人・文書の冒頭文」が記載されている。さらに、これらは一覧表にまとめられている。じつに精緻な整理である(画像5)。
25年10月に、相馬氏から資料に関する連絡をいただいた。概要は「1991年の博物館開設準備段階から旧職員・鈴木幸彦氏が精力的に活動した」「彼は盛岡在住(今堂医院からは直線距離で北に約110km)で、一関市博物館を退職後も今堂医院に行って、蔵のなかで精力的に整理をした」とのことであった。
私はスキャニングの際に資料を見ている。時期は1800~1900年で、医学関係の資料、たとえば医師同士の連絡・薬の処方・ほかの地域からの往診要請・紀州(和歌山県、華岡青洲)への旅日記などである。医学関係のほかに、一関藩との手紙・婚姻関係・時事など多岐にわたり、往時の一関藩の状況を語るのに極めて重要な古文書である。余談であるが、今も昔も人間関係は複雑で、門人同士の争いの手紙も散見される。
じつに重要な古文書であるが、資料が多岐にわたり、また数も膨大である。全部を解読し論文にするには膨大すぎる。前出の鈴木氏は、「華岡青洲関連」に絞って研究されたようである。逆にいえば、この古文書すべての解析(解読)がなされれば、1800~1900年の一関界隈さらに全国の情勢を知ることができる。その意味でも、解析すべき古文書群と考えられる。
解析中の佐藤清一氏にお聞きした。この古文書の解析は大変難しいという。その理由は「手紙ごとに癖字が多く、しかも癖字は書いた人によって異なる」。また、「解読は文字面(づら)だけではだめ。時代背景・地域性・人間関係の情報、今回の場合はさらに医療知識が必要で、多方面の知識がないと真の解読とはならない」とのことである。彼は98歳とご高齢ではあるが、熱中して解読している。また、彼から「ミカン箱1箱(古文書群)の解析に最低2年かかる」と言われた。
要するに個人の解析には限界があり、地域の古文書関係者が集結して解析するしかない。今後、その方法を考えていく。
今堂医院の資料の重要性
上記のような経緯で、私は今堂医院の資料と関わることになった。このため、この資料を整理された鈴木幸彦氏の論文を取り寄せて読んだ。『華岡青洲の門人たち―盛岡藩・一関藩・仙台藩を中心に』である(ほかの論文もあるが、内容的にはこの論文に包括される)。岩手県立図書館に所蔵されているので、興味のある方は相談いただきたい。
この論文は全94ページである。地質学の論文を書いている私から見れば、論文というより個人的な著書である。蛇足的な内容まで書かれている。この蛇足で、逆に本筋「華岡青洲の門人たち」からは離れているが、各門人の社会との関わりやご子孫の現状までわかった。じつに面白い論文である。
また、この論文から各門人の資料が分散して存在することがわかった。これと対照的に、今堂医院の資料は「約100年分が1つの蔵」にあり、その濃縮度・内容の波及性は極めて高い。資料がこれほど集積されている場所はないであろう。
これには、この地域の特性、とくに地理的条件が影響したと考えられる。一関藩は3万石の小藩で、北の南部藩(20万石)、南の仙台藩(60万石)の大藩の狭間にある。さらに幕府から認められた藩ではあるが、仙台藩の支藩という制約もある。このため、一関藩自体も「他藩とは違う独自性・独創性」を求めていた。この体質の一関藩の藩医の家系(傍系だが)に曽根元珉は育った。さらに、この当時、一関中心部の進んだ医療は農村部に波及していなかった。元珉は、その医療を広める目的で、この地(一関中心部から南南東に約23km)にやってきた。
今回の資料には、同藩の医師および弟子との手紙が多い。その手紙の内容が「自由闊達」である。今堂医院の場所は、上記のように一関藩の中心部から離れている。また、この地は一関藩領内ではなく仙台藩である。このため、一関藩の目が届かず、医師同士の交流も一層自由に行えたのではないだろうか。さらに、農村地帯にあり、土地問題もなく、同じ場所に医療施設が長くあったと推察する。だからこそ100年分の資料が残されたのであろう。
付け加えるならば、この手紙の中には、全国的に有名な一関藩の藩医「大槻家(大槻玄沢の家)」「建部家(建部清庵の家)」の手紙もある。佐藤(曽根)家と両家との関係がうかがえる。
さらに、一関市博物館の鈴木氏が丹念に調査されたにもかかわらず、一関市博物館は本資料を収蔵しなかった。理由は2つ考えられる。1つは、一関市博物館は岩手県にあり、今堂医院は宮城県にあり、県が違う。もう1つは、この地の南約3kmには登米市歴史博物館がある。この県の違いと隣接する博物館への遠慮から、資料を収蔵しなかったのではないかと推察する。100年分の資料が今堂医院の蔵に集積した理由と類似しており、因果めいたものを感じる。
余談
私はこのように自由闊達な一関地方で育った。青春期を過ごした一関第一高等学校も自由闊達な校風であった。教員から繰り返し言われたことは、「独自の考えをもち、それに従って突き進め」「他人の考えへの迎合は無能の者のすることだ」「勉学に遅れをとる者は学校を去れ」であった。さらに教員と生徒の関係は「学問を追求する同志」という雰囲気であった。自由闊達である反面、極めて厳しい校風でもあった。「その2」で述べる福島県、とくに会津は「葉隠れ」的な考えで、一関の考え方とは真逆である。
付け加えるならば、福島県の人に「主張の論拠」を聞くと、「〇〇さんが言ったから(正しい)」と回答する場合が多い。この回答は、「他者に責任を擦り付ける回答」であり、「〇〇さんの主張が正しいとは限らない」と言いたい。なぜ自分の頭で考えないのであろうか。この思考の違いが、その2の「福島県立博物館の問題」となって表れていると思う。
(了)
<プロフィール>
千葉茂樹(ちば・しげき)
福島自然環境研究室代表。1958年生まれ、岩手県一関市出身、福島県猪苗代町在住。専門は火山地質学。2011年の福島原発事故発生により放射性物質汚染の調査を開始。11年、原子力災害現地対策本部アドバイザー。23年、環境放射能除染学会功労賞。論文などは、京都大学名誉教授吉田英生氏のHPに掲載されている。
原発事故関係の論⽂
磐梯⼭関係の論⽂
ほか、「富士山、可視北端の福島県からの姿」など論文多数。










