資本主義という誤解の終焉 テクノロジーが富の源泉を奪い取る“データ資本制”へ
作家 橘玲 氏

「資本主義」という言葉はあまりにも安易に使われ、それが多くの誤解や混乱を生んでいる。「資本」を富を生み出す原資と定義し、人類史を「土地資本制」→「産業資本制」→「金融資本制」→「データ資本制」→「評判資本制」と整理することで、いまなにが起きているかが見えてくる。
「資本主義」という誤解
「資本主義が世界を分断し破壊している」とか、「資本主義だけが唯一残された選択肢だ」とか、多くの人たちが声高に資本主義について語っています。ただここで気になるのは、「資本主義とは何か?」という定義がまったくなされていないことです。それはお金を介して商品やサービスを交換する市場経済のことだったり、自分の生きづらさの原因(だと思っている)“システム”のことだったり、あるいは漠然と「気に入らないものすべて」だったりします。
そこでここでは、議論の前提となる言葉の定義を整理しておきましょう。なぜなら、「資本主義(キャピタリズム)」が「イズム(-ism)」、つまり思想や主義だという誤解が、さまざまな混乱を生む原因になっているからです。
この言葉が生まれたのは19世紀半ばで、マルクス主義者(マルキシスト)や共産主義者(コミュニスト)が、自分たちの戦うべき敵として名付けたのが始まりとされます。彼らは「コミュニズム」という理想の社会像(思想)をもっており、それと対立する既存の体制を「キャピタリズム」と呼んだのです。
しかし冷静に考えてみれば、「資本主義」という思想やそのイデオローグは存在しません。共産主義のように「こういう社会をつくろう」という設計図があるわけではないのです。それは思想というより経済の仕組み、すなわち「経済制度」ですから、「資本主義」ではなく「資本制」とすべきです。
土地資本制の時代
富は「所有」から生まれた
では、資本制における「資本」とは何でしょうか。私はこれを「富を生み出す原資」と定義しています。この視点に立って人類の歴史を振り返ると、資本制が大きく4つのフェーズを経て変化してきたことがわかります。
紀元前1万年ごろに西アジアで農業が始まり、紀元前4000年ごろのメソポタミアに都市国家が成立しました。これが最初の資本制で、お金(富)を生み出す原資はまぎれもなく「土地」でした。肥沃な土地を多く所有し、そこで農作物を育てることで富が生まれる。
それ以降、古今東西、土地を所有する者、すなわち王侯貴族が富と権力を独占してきました。彼らは土地を支配し、農民を働かせ、そこから上がる収益(税)によってゆたかさを維持していたのです。この「土地資本制」が、その後の数千年という長きにわたって人類社会の基本構造でした。
15世紀のヨーロッパで始まった大航海時代では、貿易によって富を得る商業資本家や、交易のインフラである信用状を発行する金融資本家が台頭しましたが、実態としてはアフリカから奴隷を新大陸に「輸出」し、プランテーションでサトウキビや綿花を栽培させていたのですから、これも土地資本制の亜種と見なせるでしょう。
この長大な土地資本制の歴史に終止符を打ったのが、18世紀のイギリスで始まった産業革命です。テクノロジーのイノベーションによって、人類は初めて「土地以外のもの」から利益を生み出す方法を発見しました。それが工場や機械などの「産業資本」です。
これは人類史における巨大なパラダイム転換でした。それまで土地に縛りつけられていた農民たちが都市に流入し、工場で働く「労働者」へと姿を変えました。そして、工場を所有する「資本家」という新しい階級が、王侯貴族に代わる社会・経済の支配者として登場したのです。
産業資本制の崩壊と
金融資本制への転換
カール・マルクスが分析し、私たちが「資本主義」と聞いて真っ先に思い浮かべるのは、まさにこの「産業資本制」の時代です。そこには「搾取する資本家」と「搾取される労働者」という、わかりやすい善悪二元論の構図がありました。チャールズ・チャップリンの映画『モダン・タイムス』で描かれたような、労働者が機械の部品のように扱われる世界観です。
しかし、この単純な「資本家 vs 労働者」という構図は、マルクスが『資本論』を発表した19世紀後半にはすでに崩れ始めていました。とりわけ第二次世界大戦後、先進国で目覚ましい経済成長が起こり、社会全体がゆたかになると、日々の生活に事欠くような(鉄鎖以外に失うものがない)ルンペンプロレタリアートは減り、自己実現を目指すブルジョア的な中間層に変わっていきます。企業の経営者も、かつての独裁的な資本家というよりは、部下よりも必死に働く「高級労働者」になりました。
そして、経済成長とともにお金が市場に溢れるようになると、会社の創業者や経営者よりも、市場で購入した株式を保有する投資家の影響力が大きくなっていきます。それとともに、グローバル市場のお金を管理し、運用することで利益を生み出す金融機関が巨大化し、お金がさらにお金を生む「金融資本制(株主資本主義)」の時代が到来しました。これが1980年代ごろからの大きな変化です。
このフェーズでは、富の源泉は工場ではなく「金融資本」そのものです。たくさんのお金を運用する者が、経済の頂点に立つ。その結果、先進国では、産業資本制のなかでそれなりにゆたかな生活を送っていたプチブル的な労働者層のうち、低学歴(非大卒)の工場労働者などがグローバルな知識社会から脱落しはじめます。こうして、イギリスがEUから離脱し、フランスやドイツなど大陸欧州では“極右”政党が躍進し、アメリカではトランプ政権が誕生するなど、リベラルデモクラシー(自由主義と民主政)の土台を揺るがすことになったのです。
データ資本制の本質
的外れな「テクノ封建制」
そしていま、私たちは新たな資本制への移行期にいます。2010年ごろから顕著になったこの変化では、富の源泉は土地でも工場でもお金でもなく、ネット上の膨大なデータとその解析技術です。
この「データ資本制」においては、AI(人工知能)など最先端のテクノロジーを使いこなし、巨大なプラットフォームを支配する者たち、すなわちGAFAMのようなプラットフォーマーが経済の頂点に君臨します。産業資本家や金融資本家から、イーロン・マスクやジェフ・ベゾスのようなテクノロジー企業の創業者に富の中心が移ったのです。
こうした「テクノ資本家」のほとんどは自由を至上のものとする「テクノ・リバタリアン」で、人間とコンピューターが一体化するシンギュラリティ(技術的特異点)に向けて、テクノロジーの指数関数的な進化を求める「加速主義者」でもあります(その目的は“不死”を手に入れることです)。
このように、資本制は「土地→産業→金融→データ」という流れで、テクノロジーの高度化とともにその姿を大きく変えてきました。この歴史的変遷を理解せず、いまだにマルクスが見た19世紀の産業資本制のイメージで現代を語ろうとするから、議論が混乱するのです。
産業資本制の時代には、「労働者から搾取する強欲な資本家」という善悪二元論のシンプルな物語をつくることができました。ところがデータ資本制の現代においては、明白な悪役がいなくなってしまいました。
GoogleやMetaなどのプラットフォーマーは、ユーザーを「搾取」しているのでしょうか。私たちはプラットフォーマーが提供する検索エンジン、メール、SNS、GPSマップといった便利なツールを、すべて無料で使っています。ChatGPTのような生成AIも基本的な機能は無料で公開されており、そのレベルでも東大や司法試験、医師国家試験に合格するといいます。
もちろん、「ユーザーの個人データを無断で収集し、利益を上げているではないか」という批判はあります。しかし、私たちが無料で享受しているサービスの価値と、提供している個人データの価値を天秤にかけてみれば、ほとんどの人にとって、データ提供によって失うものよりも、プラットフォーマーから得ている便益のほうがはるかに大きいのではないでしょうか。これを産業資本制の「搾取」と同一視するのが、そもそも無理があるのです。
そこで新たに持ち出されたのが「テクノ封建制」です。これは、プラットフォーマーを中世の封建領主になぞらえ、私たちユーザーを土地に縛られた農奴のように描くことで、新たな悪役をつくり出そうとしたわけです。
しかし、封建制は産業資本制よりさらに古い土地資本制の時代のシステムです。土地から富が生まれるからこそ、領主は土地を物理的に支配し、農民の自由を奪いました。それを現代のデータ資本制に当てはめ、「デジタル領主」対「デジタル農奴」とするのは、文学的な比喩としては面白いかもしれませんが、まともな社会分析とは到底いえません。
結局のところ、これらはすべて「アテンション・エコノミー」の産物です。善悪二元論のわかりやすい物語を提示しないと、誰も注目してくれない。だから、一生懸命に悪者を探して、その格好のターゲットとして、イーロン・マスクやピーター・ティールのようなテクノ・リバタリアンや、Google、Amazonといったプラットフォーマーを悪役に仕立てあげ、勧善懲悪のハリウッド映画のようなお話をつくっているのです。
評判が資本になる時代
富の中心はお金から移動する
土地資本制からデータ資本制までの歴史を振り返ると、資本制の本質がテクノロジーであることがわかります。そして産業資本制以降、とりわけコンピューターの能力が指数関数的に向上したこの20年で、テクノロジーは「技術」なのか「魔術」なのかわからなくなり、いち早くそれを手にした者に莫大な富をもたらすようになりました。
そしてここが興味深いのですが、「たくさんあるものは価値が低く、少ししかないものは価値が高い」という需要と供給の法則によって、お金の価値が下がってきました。資産5,000億ドル(約75兆円)というイーロン・マスクは人類史上最もゆたかな人物かもしれませんが、うつ病の治療を受けていることを公表しており、「異次元の拷問を自分に課している」と語っています。富の拡大に上限はありませんが、だからといってその分、幸福度が無限に大きくなっていくわけではないです。
だとしたら、お金の代わりに価値が高くなる「稀少財」はなんでしょうか。それは、お金では買うことのできない有限なものです。
1つは時間です。イーロン・マスクはどうでもいい仕事をすべて部下にアウトソースできるでしょうが、それでも1日は24時間しかありません。若者たちのあいだでコスパよりも「タイパ」が重視されるようになったのは、現代社会ではますます時間の制約が意識されるようになったからでしょう。
そして、時間よりもさらに稀少なのが「評判」です。脳の構造上、人は同時に複数のものに注意を向けることができません。仕事や勉強であれ、娯楽や依存性のある薬物であれ、あることに注意を集中すると、それ以外のことを考えられなくなってしまいます。
時間と注意の制約の結果、ネット上に大量にあふれる動画やテキストなどのコンテンツのうち、ユーザーのアテンション(注目)を獲得できるのはごく一部です。それ以外のものは、誰にも知られることなくネットの海の底深く埋もれていくだけです。
資本制の社会で人々が富を求めたのは、それが社会的な地位や権力をもたらしたからです。産業資本制以降、都市に工場労働者が集まるようになると、人類史上初めて、「生まれ育った共同体から切り離されて、見知らぬ人たちのあいだで暮らす」という経験をすることになりました。
そのとき、相手を尊重すべきか、避けるべきかを知る最も確実な方法は富(お城のような豪邸、四頭立ての馬車や高級車、ブランドもの)でした。こうして、評判の代替としてのお金の価値はますます高まりました。
ところがSNSの登場で、フォロワーや「いいね」の数で評判を可視化するというとてつもないイノベーションが実現しました。「お金で評判を買う」という成金趣味ではなく、「評判が富をもたらす」パラダイムシフトが起こったのです。
人々が本当に求めているのは、「国家の保証付き証書」でしかない紙幣や、金融機関のサーバーに格納されたデータではなく、評判という稀少な資源です。どれほどお金をもっていても、SNSでなんの評判もなければ(あるいはマイナスの評判しかなければ)ステータス競争から脱落してしまいます。
そのように考えれば、「評判資本制」でのお金の価値は、生きていくのに必要なモノやサービスの購入に使われる範囲まで縮小していくのかもしれません。
<PROFILE>
橘玲(たちばな・あきら)
2002年、国際金融小説『マネーロンダリング』でデビュー。同年、「新世紀の資本論」と評された『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』が30万部を超えるベストセラーに。06年『永遠の旅行者』が第19回山本周五郎賞候補。『言ってはいけない 残酷すぎる真実』で2017新書大賞受賞。新刊に小説『HACK』。








