西郷隆盛、最後の敗走路をたどる~田原坂から美々津、西米良、そして城山へ(後)

軍を解散、可愛岳の包囲網へ

 和田越で敗れた西郷軍は、現在の延岡市北川町俵野へ退いた。西郷は可愛岳のふもとにある児玉熊四郎邸を本陣としたが、すでに周囲には政府軍の包囲網が迫っていた。

 8月16日夜、西郷はここで最後の軍議を開き、薩摩軍の解散を決断する。重要書類とともに、明治天皇から賜った陸軍大将の軍服も焼却したとされる。鹿児島を出発して半年。ここで組織としての薩摩軍は事実上終わりを迎えた。

 しかし、西郷は降伏しなかった。翌17日午後10時ごろ、西郷ら600人余りは夜陰に紛れ、政府軍が布陣する可愛岳の包囲網の突破を敢行した。「可愛岳突囲」である。

 一行は可愛岳を突破すると祝子川で宿陣し、高千穂三田井へ進んだ。その後、九州山地を抜け、鹿児島への帰還を目指す。つまり、和田越と可愛岳では意味が異なる。

 和田越は、西郷軍が政府軍と正面から戦った最後の大決戦。可愛岳は、その戦いに敗れ、軍を解散した西郷らが政府軍の包囲を突破し、鹿児島への帰還を始めた場所だった。

九州山地を越え、西米良へ

 ここから、西郷たちの戦いは大きく姿を変える。もはや数千人規模の軍隊を率いて街道を進むのではない。政府軍の追撃をかわしながら、険しい九州山地を抜けて故郷を目指す行程となった。

 今回訪れた西米良村(にしめらそん)も、こうした山岳帰還の流れを考えるうえで印象深い場所だった。

 実際に西米良へ入ると、周囲を深い山々に囲まれている。道路が整備された現在でさえ、山の深さと集落間の距離を感じる。まして約150年前である。政府軍の追撃を警戒しながら山道を進み、食料や弾薬などの補給にも制約がある。西郷らがどのような思いで鹿児島を目指したのか、その厳しさは地図だけを見ていてもなかなか実感できない。だからこそ、美々津から延岡、和田越、可愛岳、そして九州山地へという流れを知ったうえで西米良を訪れると、目の前の山々の見え方も変わってくる。

西米良村
西米良村

 その後、一行は鹿児島県へ入り、8月29日に吉松、30日に踊、31日には溝辺方面を経て山田へ進み、9月1日未明に蒲生を出て鹿児島を目指した。2月に鹿児島を出発してから半年余り。九州各地を転戦した西郷は、敗走の末に故郷へ戻ってきたのである。

最後の舞台、城山へ

 しかし、鹿児島への帰還は戦争の終結を意味しなかった。西郷らは城山に立て籠もり、政府軍との最後の戦いに備えた。

 現在の城山は、鹿児島市街や桜島を望む観光地である。木々に囲まれた道を歩いているだけでは、ここが西南戦争最後の戦場だったことを忘れそうになる。しかし、西郷洞窟などの史跡を訪れると、その印象は大きく変わる。

 熊本、田原坂、人吉、宮崎、美々津、延岡、和田越、そして九州山地。長い転戦と敗走を経て、西郷が最後にたどり着いたのは、自らが生まれ育った鹿児島だった。

 9月24日未明、政府軍による城山への総攻撃が始まった。西郷らは城山を下り、岩崎谷を進んだ。その途中、西郷は銃弾を受けて歩行困難となり、現在「西郷隆盛終焉の地」の碑が立つ付近で、別府晋介の介錯によって最期を遂げたと伝えられている。満49歳だった。

南洲翁(西郷隆盛)終焉之地の碑
南洲翁(西郷隆盛)終焉之地の碑

南洲墓地で感じた圧倒的な静けさ

 今回の旅で、最も強く印象に残った場所が南洲墓地だった。墓地に入ると、多くの墓石が整然と並んでいる。そして、その中心に西郷隆盛の墓がある。鹿児島県の観光資料によると、南洲墓地には西南戦争で亡くなった西郷軍の2,023人が葬られ、西郷の墓を中心に多数の墓石が整然と並んでいる。その光景を前に、まず感じたのは厳粛さだった。そして、墓石の数と、それらが整然と並ぶ姿に圧倒された。

西郷隆盛の墓を囲んで700基以上の墓石が並ぶ南洲墓地 「南洲」は西郷隆盛の号
西郷隆盛の墓を囲んで700基以上の墓石が並ぶ南洲墓地
「南洲」は西郷隆盛の号

 城山や終焉の地を訪ねていると、どうしても「西郷隆盛という1人の人物」の最期を意識する。しかし、南洲墓地に立つと、見え方が変わる。そこに眠っているのは西郷だけではない。桐野利秋や村田新八らをはじめ、西郷とともに戦い、命を落とした多くの人々の墓が並んでいる。

 歴史の教科書では「西南戦争」「西郷隆盛」という言葉でまとめられる出来事も、実際には1人ひとりの人間が参加した戦争だった。それぞれに家族があり、それまでの人生があり、そして多くの命が失われた。当たり前のことだが、無数の墓石を前にすると、その事実が急に具体的なものとして迫ってくる。中央にある西郷の墓を取り囲むように墓石が並ぶ光景は、西南戦争が西郷1人の物語ではなかったことを、静かに伝えているようにも感じられた。

敗走路をたどってみえてきたもの

 今回訪れた美々津、西米良、城山、西郷隆盛終焉の地、そして南洲墓地。そこに田原坂と和田越、可愛岳という西南戦争の転換点を重ね合わせると、西郷軍がたどった道筋が一本につながって見えてくる。田原坂で政府軍の南下を阻止できず、戦局の主導権を失っていく。人吉へ退き、宮崎へ入り、美々津を経て延岡へ。和田越で最後の大決戦に敗れ、北川へ退却する。そして軍を解散し、可愛岳で政府軍の包囲網を突破。少数となった一行は九州山地を越えて鹿児島へ戻り、最後は城山に立て籠もった。

 田原坂は戦局が傾く大きな転換点、和田越は軍隊としての戦いが事実上終わる決定的局面、可愛岳は鹿児島への最後の帰還が始まる場所、そして城山は西南戦争の終焉の地だった。

 地図上では、それらを一本の線で結ぶことができる。しかし実際にその土地を訪ねると、海岸線から深い九州山地へ入り、さらに鹿児島まで戻る距離と地形の厳しさが実感をともなって迫ってくる。

 そして、その長い道の最後に南洲墓地がある。整然と並ぶ墓石と、その中心にある西郷隆盛の墓。そこには、西南戦争から約150年が経とうとする現在も、容易には言葉にできない厳粛さが残っている。

 西郷隆盛の敗走路をたどる旅は、1人の英雄の最期を追うだけのものではなかった。近代国家へと大きく舵を切った日本の転換期に、多くの人々が何を求め、何を守ろうとし、そして何を失ったのか。そのことを、九州の海岸線と深い山々、そして静かに並ぶ墓石から考える旅となった。

(了)

【内山義之】

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