「西郷隆盛、最後の敗走路をたどる~田原坂から美々津、西米良、そして城山へ」(全2回)で既報した通り、九州山地を横断した。取材のもう一つの狙いは人口激減の実態を掴むことである。そして得た結論は「福岡市への若手の流入はもう期待できない」ということだ。
まず道のりを説明しておく。九州自動車道の嘉島JCTから九州中央自動車道に入る。現在、嘉島JCTから山都通潤橋ICまでの23kmが供用されている。宮崎県に入って一路高千穂町に向かう。途中、五ヶ瀬町に入って右へ曲がり椎葉村に向かう。耳川沿いに東へ下る。途中、若山牧水の生誕地・日向市東郷町坪谷へ立ち寄る。そこから河口の美々津町へ到達。この町は筆者の生まれ故郷だ。立磐神社へ直行。美々津~椎葉村の道路事情である。今回の行程で驚いたのは、山道でもしっかりした対向2車線道路が整備されていたことだ。ただ椎葉村から美郷町の一部までは整備されていなかった所が残っていたのは至極、残念。
椎葉村の栄枯盛衰
まず、椎葉村の歴史は、壇ノ浦の戦い後の平家落人伝説にさかのぼる。1185年、壇ノ浦の戦いで敗れた平家の武士たちが各地へ逃れ、椎葉にも落人がたどり着いたと伝わる。那須与一の弟・那須大八郎と鶴富姫の悲恋伝説が有名である。展示館の写真も添付しておく。この伝説は800年以上前の出来事として語り継がれている。
そして椎葉村が脚光を浴びたのは1945(昭和20)年から60(昭和35)年までである。耳川はダム水力発電所の建設ラッシュであった。有名なダムとしては上椎葉ダムがある。
歴史的な恋愛伝説という財産も残っているが、この水力発電所の建設ラッシュには地元も盛り上がった。工事には九電の現場員が数多く集まったのである。九州電力では、57(昭和32)年に火力発電量が水力発電量を上回るまで、水力発電が主要電源だった。耳川だけでなく小丸川等々の宮崎県の河川には当時でいう大型ダムが建設されていった。椎葉村は45(昭和20)年から60(昭和35)年の間が経済的にはピークであったとみる。
現代版恋愛も華やかであった。九電の新卒の技術系社員たちが3年程度、現場に派遣される。椎葉村では休日、何もすることがない。地元の若い女性たちと交流の場で知り合い、結婚へ発展したケースも多い。筆者の高校の6年後輩の女性もこのケースであった。当然、現在でも福岡に定住している。
さて現在の椎葉村の人口は幾らであろうか? 9月1日の段階で968世帯2,144人である。80年には5,478人が生活していた。2010年3,092人、20年2,503人と急減の道をたどってきたのである。約61%減という恐るべき数字になる。この村の面積は537.29km2で、福岡市の約1.6倍の広さに数少ない方々が暮らしている。いつまで人々の生活が存続できるのか!椎葉村から耳川の河口までおよそ80kmの距離になる。
若山牧水誕生の地・坪谷
耳川河口から15km先に坪谷地区がある。歌人・若山牧水の生誕地なのだ。坪谷では明治時代から林業や畜産などが盛んだった。また、他所から商人たちが取引に訪れ、人々の往来も活発だったとみられる。柳川地区の方々は哀愁を抱くであろう。地元出身・北原白秋とは早稲田大学において歌人として親友関係にある。
当時、東京の大学に進学させるには豊かな経済力が必要であった。若山牧水の祖父・父は2代にわたって医者であった。だから県立延岡中学から東京へ進学できたのである。この若山家の暮らしぶりからも、当時の坪谷地区の経済的な豊かさがしのばれる。牧水の母の出身は美々津である。これまた筆者の出身と同じであるから親近感を抱く。
さて現実に戻ろう。牧水の母校・坪谷小学校は26年3月に閉校した。坪谷村は1889(明治22)年の町村制施行で周辺の村と合併して東郷村となり、1969(昭和44)年に町制施行で東郷町となった。2006(平成18)年には日向市と合併した。旧東郷町の人口は26年7月1日現在、2,956人となっている。

(つづく)
【児玉直】










