福岡城に天守は「あった」──商工会議所会頭が語る復元的整備への道

 NPO法人 福岡城・鴻臚館市民の会が主催する「第17期 福岡歴史観光市民大学」の第8回講座が、2026年9月7日(月)、福岡市民ホール小ホールで開かれた。今回は福岡商工会議所との共催による公開講座で、会員以外にも開放された。講師には福岡商工会議所会頭の谷川浩道氏を迎え、「福岡城天守の復元的整備について──四百年の時空を超え、市民が誇れる城下町福岡のシンボル復活へ」と題した講義が行われ、会場は満席の聴衆で埋まった。

「福岡城天守の復元的整備について」を講義する福岡商工会議所の谷川浩道会頭
「福岡城天守の復元的整備について」を講義する福岡商工会議所の谷川浩道会頭

まちづくり懇談会と「15の提言」

 谷川氏はまず、福岡商工会議所が4年前から推進してきた「福岡・博多の歴史・文化を生かしたまちづくり懇談会」の取り組みを紹介した。その集大成が、同懇談会がまとめた「15の提言」である。

 提言の第1は「史跡等の点検と整備」。かつて整備された史跡が、その後十分に手を入れられることなく放置されていた実態を踏まえ、福岡市に対して恒常的な点検・整備を求めたものだ。第7は「鴻臚館跡の早急な整備活用」、そして第8が「福岡城天守復元の早急な検討」であった。

 「天守があったかなかったかの議論に加え、復元すべきだという議論、今のままでいいという議論が錯綜していた。一度きちんと検討してみてはどうか」──それが上記懇談会設置の趣旨だったという。

天守への思い──熊本城との対比

 自らを「お城オタクというほどではないが、大変お城が好き」と語る谷川氏は、高知城、松山城、彦根城、松本城など全国の城をめぐってきた経験から、天守を持つ地域の人々がその存在に強い誇りを抱いていることを実感してきたという。

 「もし熊本城に天守がなかったら、熊本はどんな町になっていたでしょうか」

 熊本城の天守は西南戦争で焼失し、第二次世界大戦後、鉄骨鉄筋コンクリートで復元されたもので、文化財ではない。だが、だからこそ熊本地震の際には文化財としての制約を受けず、迅速に修復されたという皮肉な面もある。いずれにしても、天守がいかに地域に愛されているか。「熊本城に天守がないような状態、それが今の福岡城ではないでしょうか」と谷川氏は問いかけた。

 一方で反対論もある。城郭考古学者の千田嘉博・奈良大学特別教授は「とてもいい石垣があるので、もうそれでいい」、中井均・滋賀県立大学名誉教授は「石垣の保存のためには何もしないほうが良い」と発言している。対して、後に述べる「ふくふく懇」(商工会議所が事務局)のシンポジウムに招かれた本郷和人・当時東京大学史料編纂所教授は「子どもたちは天守があるからお城に行くのではないか」「福岡城も天守の復元に向けて努力すべき。自分もお手伝いしたい」と語ったという。

「観光目当てではない」──提言の原点

 天守復元の動きに対しては「観光狙いではないか」「商売人の魂胆ではないか」との批判も寄せられたという。これに対し谷川氏は、「15の提言」などの根本にあるのは、歴史・文化を、次代を担う若者や子どもたちに伝え、郷土への誇りを抱く心を育てることだと強調した。

「豊かな心を持つ子どもたちを育てていく義務が、私どもの世代にはある」

福岡商工会議所 会頭 谷川浩道氏
福岡商工会議所 会頭 谷川浩道氏

    谷川氏がこの問題に関わるきっかけは、福岡城・鴻臚館市民の会の石井幸孝前理事長との出会いだった。ロータリークラブの例会のたびに出口で待ち構えられ、1時間にもおよぶ天守復元の話を聞かされる日々が続いた。(会場からは笑いが起きた。)「このままではかなわん」と、広く福岡・博多の歴史・文化を考える場をつくることで応じたのが懇談会の始まりだったという。

「復元的整備」を考える懇談会

 「15の提言」を踏まえ、谷川氏らは別組織として「福岡城天守の復元的整備を考える懇談会」(略称:ふくふく懇)を設置した。座長には元・文部科学事務次官で文化庁文化財保護部記念物課長を務めた山中伸一氏((学)角川ドワンゴ学園理事長)、中心メンバーに九州大学名誉教授の丸山雍成(まるやま・やすなり)氏、福岡城天守のCG復元に取り組んだ建築史の専門家・佐藤正彦九州産業大学名誉教授らが名を連ねる。

 「復元的整備」とは、2020(令和2)年の文化審議会で認められた考え方で、徹底して元の姿に近づける「復元」とは異なり、一部に資料が欠けていても学術的研究を尽くせば再建が認められるもの。しかしながら、ふくふく懇事務局の文化庁からの聞き取りでは、「復元的整備においても指図や外見写真などが必要」とする文化庁の厳しい姿勢がうかがえた。懇談会としては、軍事施設であった城に設計図などが残っていないのが普通である以上、文化庁が行っている平城京などの復元と同様に、「学者の先生が一生懸命研究したものに基づけば復元的整備を認めてもらってもいいのではないか」と考えている。

天守は「存在した」──通説の転換

 懇談会の第1の課題は「天守はそもそもあったのか」だった。「存在した」とする見方が今や通説となっている、と谷川氏は明言した。

 かつては、1646年頃の地図「正保福博惣図」に天守が描かれていないことなどを根拠に、「予算がなくなって途中でやめた」「最初からつくるつもりはなかった」といった「天守非存在説」が有力だった。しかし谷川氏は「それらの論文にはすべてエビデンスがない。天守がなくなった後の地図に天守が描かれていないのは当然だ」と指摘する。

 転換点となったのは、丸山雍成氏が2014年に日本城郭史学会の専門誌『城郭史研究』34号に発表した論文「黒田孝高(如水)の戦略と築城」だった。論文発表後10年以上を経ても反論する論文は一切出ておらず、今や福岡城に天守が存在したことが通説となっている。

 天守存在の証拠として挙げられたのは、黒田長政が家臣に宛てた天守建築の命令や修繕指示の書状、天守の欄干の腐敗報告と修繕指示の記録、そして細川忠興・忠利父子の往復書簡などだ。永青文庫に残る細川家の文書には、黒田長政が城を「破却」するらしいとの噂、実際に破却したらしいという記述があり、大坂城再築のために天守の一部の資材が運ばれた経緯がうかがえる。ふくふく懇事務局が原本確認を行った際には細川家の当主で元総理・細川護熙氏のご子息にあたる細川護光・(公財)永青文庫理事長自らが立ち会ったという。

 さらに、毛利藩の密偵が描いた「九州諸城図」には4重の福岡城天守が描かれている。佐賀城が4重に(実際は5重)、小倉城が3重に(実際は4重)描かれるなど記憶違いもあるが、「密偵が実際に天守を見て国元に帰って描いた──天守があったことの証拠と考えるのが適当だ」と谷川氏。当時4重の天守を持つ城は高知城や松江城など20万石前後の大名に限られ、大変珍しかったという。

黒田長政の時代と天守の17年

 黒田長政は1600年9月の関ヶ原の戦いで最大の手柄を立て、筑前52万石を拝領。名島城を経て、東京ドーム8.8個分の広さを持つ平山城・福岡城を築いた。築城の三名人といわれるのが、加藤清正、藤堂高虎、そして黒田官兵衛だ。その官兵衛と長政の親子が、戦国時代末期で隣国の細川家との緊張関係もあるなか「軍事施設の要である天守をつくらなかったはずはない」と谷川氏は論じた。

 ただし天守の存続期間は約17年にすぎなかった。15年、大坂夏の陣で豊臣家が滅びると、幕府は一国一城令を発し、続く武家諸法度で無届けの城郭修繕を禁じた。長政はお触れの前に豊前国との境の六端城を自ら壊した。19年、福島正則は広島城の無断修理で改易されるが、このことは各大名に衝撃を与えたようで、長政も福岡城の天守を解体して大坂城再建の資材として献上。以後、黒田家は幕末まで幕府への恭順を貫いた。

 天守の資料が少ない理由については、存続期間の短さに加え、「城は軍事機密であり、設計図(指図)は敵の手に渡れば丸裸同然。隠したか焼却したか、残っていないのがむしろ自然だ」と説明した。

5重6階・地下1階──佐藤正彦氏のCG復元

 講義の後半では、懇談会メンバーの佐藤正彦氏がビデオで登場し、CGによる福岡城天守の復元案を披露した。

 佐藤氏が推定した天守は、屋根が5つの「5重」、階数は6階、地下1階。理由は、黒田家と同じ52万石の石高の姫路城天守が5重6階であること。高さは石垣上から屋根のてっぺんまで26m余り。外観は国の重要文化財として福岡城内に残る多聞櫓に倣い、裾が黒塗り、軒下が白い「黒い天守」とした。

 幸いにも福岡城には地下1階部分と石垣が残っており、40個あまりの礎石の間隔(6尺5寸)から、地下は8間×7間、1階は12間×11間と推定できる。高さは江戸初期の建築書『愚子見記』の「一階の桁行と一階から最上階の軒桁までが同じ」という記述に従った。

 構造上の課題である「石垣がもつか」の問題には、地下の礎石間にコンクリートの梁を餅網のように入れる「地中梁」の工法を提案。荷重を地中梁で受けることで石垣を傷つけず、礎石を見せる展示も可能になるという。「佐藤先生は99%復元可能とおっしゃる。それほどではなくとも、私どもは9割以上は可能ではないかと考えている」と谷川氏は付け加えた。

動き出した発掘調査

 懇談会は2024年12月に「福岡城天守の復元的整備について──報告と提言」を取りまとめて記者会見し、25年1月、福岡市の高島宗一郎市長に提言を手渡した。それに先がけて、24年9月、ふくふく懇は市長に、天守台付近の発掘調査と、黒田家や旧家臣のもとに残る資料の調査を緊急要望した。

 発掘については25年2月に文化庁の許可が下り、同年6月30日、福岡城天守台における初めての本格的な発掘調査が開始され、貴重な発見が相次いだ。現在は2年目に入っている。「天守台の穴蔵(あなぐら)」といわれる部分だけでなく、石垣の下なども調べて天守台の全貌を明らかにせよ──文化庁調査官や各専門分野の有識者からも学術的に貴重な発掘との位置づけを得ているという。

 「その火付け役を私ども商工会議所ができたことは、この上ない喜びであり誇りです」。谷川氏はそう締めくくり、会場からは大きな拍手が送られた。

 なお会場では、鴻臚館跡についても言及があり、「15の提言」を受けて現在かつてないスピードで復元工事が進められていることが紹介された。天守復元と鴻臚館整備──舞鶴の地に重なる2つの歴史的シンボルをめぐる動きが、いま大きく動き出している。

【児玉崇】

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