なぜ玄洋社は「侵略主義」と見られてきたのか──高場乱と三傑が紡いだ「もう一つの自由民権」
NPO法人 福岡城・鴻臚館市民の会が主催する「第17期 福岡歴史観光市民大学」の第10回講座が、2026年9月24日(木)に開かれた。後期講座の開講回となる今回のテーマは「高場乱(おさむ)と玄洋社の三傑──平岡浩太郎、箱田六輔、頭山満」。講師には福岡地方史研究会会長・石瀧豊美氏を迎え、半世紀にわたる玄洋社研究の成果が語られた。

半世紀におよぶ玄洋社研究の成果を語る石瀧豊美氏
「福岡県から一歩出ると、私は怪しい人になる」
石瀧氏は1949年、福岡市柳原(現・中央区赤坂2丁目)生まれ。独学で歴史研究を始めて半世紀、第37回福岡市文化賞を受賞し、『須恵町誌』『新修福岡市史』など自治体史の編さんにも携わってきた。主著に『玄洋社発掘─もう一つの自由民権──』『頭山満・未完の昭和史』などがあり、今年1月には最新刊『頭山満 沈黙の昭和史──「宮中某重大事件」百年目の真実』(筑摩書房)を上梓した。
「ここ3、4年、それまでとはまったく違った風景がみえてきた」と石瀧氏は切り出す。戦後の歴史研究で「大陸侵略の旗振り役」などと位置づけられてきた玄洋社と頭山満について、一次資料を掘り起こしていくと、従来とは異なる姿が浮かび上がってくるという。
「歴史の本や百科事典に書かれていることとまったく違うことを私は言っています。家に帰って本を調べて違うことが書いてあっても、私のほうを信用してください」──。会場の笑いを誘う前置きには、長年にわたり史料と向き合ってきた研究者としての自負ものぞいた。
研究の原点は「親戚の変わったおばあさん」
石瀧氏が研究を始めたきっかけは、高場乱(1831~1891)という1人の女性だった。20代半ばのある日、西日本新聞で高場乱を取り上げた記事を目にした。「親戚に、女なのに男の格好をして男の言葉を使う変わったおばあさんがいる」と子どものころから母に聞かされていた人物が、新聞では「頭山満の先生」と紹介されていた。親戚のおばあさんが、突然、歴史上の人物として目の前に現れたのだ。
高場乱は、天草から福岡に伝わった高場流眼科の系譜に生まれた。糟屋郡須恵町から分家した父は博多へ移り、瓦町(現・祇園町付近)を経て人参畑(現・博多駅前4丁目付近)に居を構えた。乱は幼少期から男の格好で育てられ、数えの11歳で藩に願い出て帯刀の許可を受けた。秋月藩校の教師・原古処の娘で、刀を差して全国を旅した原采蘋という前例もあったという。
眼科医となった乱は、人材育成のため「興志塾」を開いた。博多の人々からは「人参畑塾」「人参畑のばあさん」と呼ばれた。本人は男のつもりだったから、「せめて人参畑のじいさんと言ってほしい」と石瀧氏は笑う。
この門下から、1877(明治10)年の福岡の変の指導者で、後に死刑となった武部小四郎をはじめ、箱田六輔、平岡浩太郎、頭山満、来島恒喜ら、玄洋社で活躍する人物が輩出した。後に玄洋社の前身・向陽社の社名をめぐる争いを仲裁し、玄洋社誕生への道筋をつけたのも乱だったという。
玄洋社はいつ生まれたか──新聞記事から定説を問い直す
玄洋社の成立は「1881(明治14)年2月」とする説明が一般的だ。しかし石瀧氏は、この年代に疑問を投げかける。
根拠の1つが、成立とされる時期より2カ月前の1880(明治13)年12月、福岡の新聞に掲載された「玄洋社演説会」の記事だ。さらに同年5月には、結社の届け出に対して警察が許可証を発行しており、その写真が戦前の玄洋社関係紙に残っているという。「警察の判子まで捏造しているのでなければ、偽の文書として否定できない」。こうした史料から、石瀧氏は実際の結成を1879(明治12)年12月ごろと推測している。
玄洋社の憲則には「皇室を敬うこと、本国を重んずること、人民の主権を守ること」が掲げられた。後に「人民の権利」と書き換えられたとされるが、石瀧氏は、明治憲法制定前の表現として「人民の主権」が原文だったとみる。
その母体となったのが、士族反乱に参加した人々だった。1877年3月、西南戦争のさなかに福岡城と県庁の襲撃が企てられた「福岡の変」。決起は鎮圧され、5人が死刑となり、500人ほどが処分された。
すでに田原坂の戦いで西郷軍が劣勢となるなかで起こった決起について、「負けると分かってなぜ戦うのか」と疑問視されてきたが、石瀧氏は「福岡士族は嘘つきだと言われないための戦い」だったと読み解く。獄から戻った若者たちが自由民権運動に学び、結成したのが玄洋社の前身となる向陽社であり、土佐の立志社と並ぶ「もう1つの自由民権」の潮流だったという。
なお、玄洋社の「玄洋」は玄界灘を雅に表した名称だという。この名称を対外進出志向と関連づける見方に対し、石瀧氏は「福岡には玄洋小学校、玄洋公民館、玄洋タクシーまである。福岡では普通に使われる言葉だ」と指摘する。海や山の名を冠することは、当時の自由民権団体にもみられた命名方法だったという。
三傑の群像──関脇・箱田六輔、炭鉱の平岡浩太郎、沈黙の頭山満
箱田六輔は鳥飼(現・中央区)の生まれ。18歳ごろに戊辰戦争に参加し、高場乱の人参畑塾に学んだ。萩の乱に連座して投獄され、出獄後は自由民権運動で頭角を現す。当時の「民権運動家番付」では横綱不在、大関が板垣退助、その次の関脇が箱田六輔だったという。
「1890年の第1回帝国議会まで生きていれば、衆議院議長になってもおかしくない」というほどの存在だったが、帝国議会の開会を見ることなく急死した。切腹説、フグの毒説、心臓病説などが残るなか、石瀧氏は頭山満との対立に責任を取った切腹だった可能性を指摘する。
平岡浩太郎は箱田より1歳下、頭山より4歳上。地行(現・中央区)の生まれで、内田良五郎の弟、後に黒龍会を結成した内田良平は甥にあたる。
17歳で戊辰戦争に参加した際、所持していたピストルが暴発して仲間を死なせてしまい、責任を感じて自らも死のうとした。駆けつけた兄に「お前が死ねば福岡藩の兵隊が2人減る。2人分働け」と叱られ、生き延びたという。
福岡の変では武部小四郎の部隊に加わるが解散となり、1人で鹿児島へ向かって西郷軍に合流し、その後投獄された。獄中で学問の大切さに気づき、出獄後は商売を始め、炭鉱経営で成功。衆議院議員に当選し、隈板内閣の成立にも尽力した。その豊富な資産が玄洋社の活動を支えた。炭鉱事業を通じて玄洋社を支えた人物は平岡だけではなく、安川敬一郎らの名前も挙がる。
頭山満(1855~1944)は早良郡西新町(現・早良区西新)に筒井亀策の三男として生まれ、母方の頭山家を継いだ。幼名は乙次郎、号は立雲。「満」の名は太宰府天満宮に由来するという。
萩の乱に連座して投獄されたため、西南戦争には参加していない。出獄後は板垣退助と交わり、演説会にも立ったが、やがて「一言もしゃべらなくなる」。石瀧氏はこの沈黙について、口先だけで動かない人が多いなか、何も言わずに実行する生き方を選んだのではないかとみる。
1887年には玄洋社経営の「福陵新報」を創刊して社長となり、それが生涯唯一の肩書となった。1889年には玄洋社員・来島恒喜による大隈重信外相襲撃事件が発生。爆弾調達への頭山の関与も取り沙汰され、玄洋社が暴力的な政治活動と結びつけて語られる大きな契機となった。
孫文が訪ねた福岡──「日中戦うべからず」の信念
亡命中の金玉均、孫文、ラス・ビハリ・ボースらアジアの政治活動家と関係を築いたことも、玄洋社の歴史を語るうえで欠かせない。
1912年に中華民国臨時大総統を辞任した孫文は、翌1913(大正2)年に福岡を訪れ、玄洋社や九州帝国大学医科大学などを訪問した。九州帝国大学では書を残し、「学道愛人」の書は現在も九州大学伊都キャンパスの中央図書館に掲げられている。
孫文は福岡滞在中、崇福寺の玄洋社墓地にも足を運んだ。玄洋社関係者との交流を伝える写真や記録からは、福岡と中国革命を担った人々との深いつながりをうかがうことができる。
1929年、南京の中山陵に孫文の柩が納められる際には、頭山満と犬養毅が中国側から招かれた。石瀧氏は当時の写真を示しながら、頭山が中国側の要人と築いていた関係を説明する。重慶の蒋介石、南京の汪兆銘の双方が頭山との関係を重視していたという。
1944年10月5日、頭山満は御殿場で没した。同月10日に増上寺で行われた葬儀には、戦時下にもかかわらず約2万人が参列したとされる。昭和天皇は勅使を遣わし、花を贈った。
石瀧氏が近年の研究で注目しているのが、その背景と「宮中某重大事件」との関係だ。皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)と久邇宮良子女王の婚約をめぐり、婚約解消を求める動きが起きた際、東宮御学問所御用掛だった杉浦重剛らが婚約継続を訴え、頭山もその動きを支えた。石瀧氏は、昭和天皇による頭山への異例の厚遇の背景に、こうした経緯があったと考察している。
実際、石瀧氏の最新刊では、頭山の死去に際する勅使差遣や葬儀について史料を基に検証している。宮中某重大事件をめぐって頭山らが婚約解消に反対したこと自体は、一般的な歴史資料からも確認できる。
さらに石瀧氏が紹介したのが、「日中戦うべからず」という頭山の姿勢だ。頭山が自らに代わる人物を上海や香港へ派遣し、日中和平工作を進めていたことを示す史料が、玄洋社関係資料のなかに残されていたという。
当時の権力と対峙しながら、その考えを書き残した人々がいた。石瀧氏は『頭山満・未完の昭和史』の帯にも「日中戦うべからず」という言葉を掲げている。
福岡から生まれた結社の遺産
玄洋社は福岡市西職人町に本拠を置き続けた。東京へ本拠を移して全国組織をつくるのではなく、構成員は普段それぞれの仕事や生活を送り、必要なときに集まって活動する。石瀧氏は、その姿について「政治結社というより、福岡の名士たちの親睦団体に近かった」と表現する。
筑前勤皇党から福岡の変へ、そして玄洋社へと続く人脈。玄界灘に面し、海の向こうのアジアと向き合わざるを得なかった地理的条件。そして炭鉱経営などを通じて得られた資金力。石瀧氏は、こうした福岡ならではの条件が重なり合い、玄洋社という独特の結社が生まれたとみる。
「福岡のこれからの都市的な発展、アジアに向かっての発展も、玄洋社とその足跡の延長上にあると見直していければ」
予定時間を超えて語り尽くした講義は、会場の大きな拍手に包まれて幕を閉じた。
なお、10月26日(月)には野外研修として崇福寺の見学が予定されている。高場乱、頭山満、来島恒喜ら玄洋社ゆかりの人物の墓を、講義の記憶とともに訪ねる機会となりそうだ。
【児玉崇】









