更生計画終了間近、復活を目指す老舗企業・アサヒコーポレーション(1)
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(株)アサヒコーポレーションは1998年4月1日に2回目の不渡りを出して、事実上倒産した。負債は約1,200億円。会社更生法の適用を申請し、2001年4月に更生計画の認可を受け、事業再生のスタートを切った。更生債権261億円は残り18億円としているが、16年12月20日に弁済を終了する予定。16年間におよぶ更生計画は、終焉に向かっている。新生アサヒコーポレーションとして復活しつつある、同社が歩んできた茨の道の足跡をたどる。
ドイツ人捕虜が技術提供。ゴム製造業が栄えた街
アサヒコーポレーションを語る前に、まずは久留米地区でゴム製造業が栄えた背景について語らなければならないだろう。
久留米市は、筑後川に沿うように位置する福岡県南部の都市だ。面積は約229万m2、人口は2016年5月現在で約30万人。明治の中頃から「久留米の3しゃ」という言葉があるが、これは“芸者・医者・人力車”が街にあふれていた様子から、久留米の隆盛ぶりを表したものだ。九州一の農業地帯・筑後平野を背景に、産業が興り、集積していった。
そして第一次世界大戦後、ドイツ兵捕虜を収容する「久留米俘虜収容所」が設置された。収容人員は最高1,319名にのぼり、捕虜たちは最長5年3カ月におよぶ収容期間を過ごした。そのなかには、ゴム製造に関して高い技術を持った捕虜が多く居た。彼らが、久留米のゴム製造業の発展に寄与したと言われている。
ゴム3社の誕生
1873(明治6)年に倉田雲平氏が創業した「つちやたび」(現:(株)ムーンスター)と、石橋徳次郎氏が1892(明治25)年に創業した「志まや足袋」(現:(株)アサヒコーポレーション、以下同社)がその技術を吸収した。この久留米を代表する2人の起業家が立ち上げた足袋会社とドイツ兵捕虜が持っていた高いゴム製造技術が融合。とくに現在主流となっている地下足袋(貼付式ゴム底足袋)は、石橋徳次郎の発明(1923年10月、実用新案登録番号第80594号)によるもので、ゴム底が滑らない波形となっている。同商品は、近隣にあった三池炭坑において炭坑夫に人気を博したことなどから、全国的に普及した。ここに、ゴム製造業を手がける会社としての事業基盤が確立されたと言えよう。
また、久留米のゴム工業にとって、欠かせない企業がもう1社ある。それは言わずと知れた、(株)ブリヂストンだ。今では世界的なタイヤメーカーへと成長した会社であるが、もともとは日本足袋(株)(現:アサヒコーポレーション)に設置され、研究を行っていたタイヤ部門がルーツ。1931年3月に、資本金100万円でブリヂストンタイヤ(株)として分社・独立した。“石橋”の名字をそのまま英語にしたが、語呂が悪いので逆にして「ブリッジストーン」→「ブリヂストン」の社名にしたのは有名な話である。
久留米のゴム3社は、昭和初期からアジア地区に工場を進出させ、世界一のゴム靴輸出工業国に押し上げた。同社と同じようにゴム靴製造を手がけるライバル会社のムーンスターとは、競争しながら日本全国に販路を形成していった。これにより久留米は、本格的なゴム工業の基盤が図られたのだ。近代産業の発展により「久留米の3しゃ」は「ゴム3社」になったのである。
(つづく)
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