2024年12月22日( 日 )

「二日市保養所」の悲劇を語り継げ~引揚げ女性への性暴行と中絶

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(元毎日新聞論説委員)下川 正晴

「二日市保養所」跡にある水子地蔵と記念慰霊碑<

「二日市保養所」跡にある水子地蔵と記念慰霊碑

 上智大学で4日、戦後引揚げ70周年記念シンポジウム「戦後引揚げと性暴力を語る」が開かれた。私は月刊誌「正論」8月号で、福岡県筑紫野市にあった戦後の中絶病院「二日市保養所」を取り上げた。マスコミはなぜ、この問題を広く報道しないのかと問題提起してきた。シンポジウムは、歴史学やフェミニズムにおける同様の問題点を指摘する初の試みだった。

 二日市保養所では戦後、満州などからの引揚げの過程で、ソ連兵らから性暴行を受け妊娠した日本人女性400~500人の中絶手術が行われた。京城帝大医学部の医師や看護婦等の人道的な措置だった。それは1977年になって、RKB毎日放送がドキュメンタリー「水子のうた」を制作し、放送した。ところが、その後、福岡地区で散発的に新聞やテレビ報道がなされることはあっても、全国的な関心事にはならなかった。

 満州、中国大陸、朝鮮、台湾、樺太など「外地」からの引揚者は、約500万人を数える。このうち佐世保浦頭(うらがしら)港に上陸した者は139万6,468人、博多港が139万2,429人だ。彼女たちを迎える引揚港の周囲には、二日市保養所のように、堕胎や性病治療を目的とする施設が開設された。しかし「戦後史において、この経験は長らく抑圧されて来た」(シンポジウム開催趣旨)のである。
 たとえば、新聞報道の場合、1994年から2014年までの20年間に報道された記事のうち、「二日市保養所」を含む記事は、朝日10、毎日6、読売5、産経1の計12本にすぎない。地元紙の西日本新聞は33本だ。全国紙4紙の扱いを見ると、東京本社版に記事が載ったのは、朝日2回(社会面と家庭面)、読売が1回(社会面)、毎日ゼロ、産経1回(オピニオン)にすぎない。記事自体が少ないうえに、ローカル化されてきたのである。「抑圧」という表現は、決して、大げさではない。

 このようなマスコミ報道が変化を見せ始めるのは、戦後70年が近づいたころからだ。
 昨年初放送されたKRY山口放送制作の番組「奥底の悲しみ~戦後70年、引揚者の記憶」は、第11回日本放送文化大賞グランプリ、民放連賞最優秀賞をダブル受賞した。RKB「水子のうた」以降の空白を埋める衝撃作だった。「奥底の悲しみ」は、引揚げ途上の性暴行の実態を、詳細な証言で描き出した。この番組は、ネットでも見ることができる。

 しかし、問題は、依然として放送が「深夜枠」の範囲内に留まり、多くの国民が気づいていないことだ。そして、シンポジウムで指摘されたように、歴史学やフェミニズムは、異様なほどの沈黙を続けてきたのだ。

 追悼行事も、とても心細い。
 毎年5月14日、筑紫野市の高齢者福祉施設「むさし苑」の駐車場にある「二日市保養所」跡地の水子地蔵では、ささやかな供養祭が行われてきた。私は今年、初参加して驚いた。参加者は40人ほどと少なく、地元市議など有力者の姿もない。マスコミ取材もないという寂しさだった。「去年来られた引揚者も今年は姿が見えない。いつまで、供養祭ができるだろうか」。関係者のつぶやきを、深刻に受け止めざるを得なかった。

 私は「二日市保養所」問題を、3回に分けて連載した。取材過程で、関東地区の病院で行われた引揚者女性への中絶手術に立ち会ったという元看護婦の証言を聞いた。九州以外の病院で、中絶手術があったことを示す初証言だ。引揚者は90歳近くになっている。取材も学術研究も急がねばならない。

 地元の二日市中学は今年夏、引揚げと二日市保養所の悲劇を演劇化した「帰路」を上演した。私の連載記事にも、地元から反響があった。少しずつだが、「二日市保養所の悲劇を語り継ごう」という動きが出てきた。この動きを、さらに高めなければならない。

<プロフィール>
shimokawa下川 正晴(しもかわ・まさはる)
1949年鹿児島県生まれ。毎日新聞ソウル、バンコク支局長、論説委員、韓国外国語大学客員教授、大分県立芸術文化短期大学教授(マスメディア論、現代韓国論)を歴任。国民大学、檀国大学(ソウル)特別研究員。日本記者クラブ会員。
メールアドレス:simokawa@cba.att.ne.jp

 

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