2024年11月14日( 木 )

民法第877条 「親族の扶養義務」に翻弄(前)

記事を保存する

保存した記事はマイページからいつでも閲覧いただけます。

印刷
お問い合わせ

大さんのシニアリポート第59回

 『当事者主権』(中西庄司、上野千鶴子共著 2003年発行 岩波新書)を実に興味深く読んだ。ただ少し気になった箇所があった。150ページ、「ちなみに民法877条にいう親族の扶養義務は、親から子への生活保持義務と、子から親への生活扶助義務とにわけられる。親は子に対しては生活を犠牲にしても扶養の義務があるが、子は親に対して生活を犠牲にしてまで面倒をみる必要はない。子世代のなかには、親の介護を負担に感じている人は多い。福祉先進諸国で、高齢者介護の社会化について合意が形成しやすいのは、子世代が親の扶養義務から解放されたがっていることと無関係ではない」とある。

 次回作『親を捨てる子、子を捨てられない親(仮題)』(平凡社新書)では、運営する「サロン幸福亭ぐるり」(以下「ぐるり」)で実際におきた「棄老事件」を紹介。現実として、「親を捨てる子」が急増している実情とその歴史的背景、(子に捨てられた)親の対応の仕方を報告しようと準備していた。そこには「実の子が親を捨てるのはいかがなものか」という問題提起が込められている。

 民法第877条では、「子は親に対して扶養の義務はある」しかし、「(自分の)生活を犠牲にしてまで面倒をみる必要はない」と規定(上野説)するとなると、「ぐるり」で実際におきた「棄老事件」は民法上「棄老事件」ではなくなる。息子が「わたしにも生活というものがある」と執拗に口にし、具体的な対応をほとんど関係機関と「ぐるり」の亭主であるわたしに丸投げした。わたしはその態度に少なからず怒りを覚えた。世間には「介護離職」を余儀なくされ、収入減と先行き不安から「介護心中」にいたる事例も少なくない。この現実的なギャップをどう捉えていけばいいのだろう。問題は、「(自分の)生活を犠牲にしてまで面倒みなくていい」という内容についての「線引き」を、どこで引くのかということだ。その判断は当事者の「子」であり「親」だ。

 たとえば子は「自分の生活を犠牲にしている」と感じて、親の介護を放棄する。あるいは、自分のできる範囲内での関わりを持とうとする。当然介護の内容が希薄になるかゼロになる。一方、「子の生活を犠牲にしているとは思えない。あの子は扶養(介護)から逃げている」と感じる親もいるだろう。第877条には、家庭裁判所に判断を委ねる事項もあるものの、わたしの周囲で裁判沙汰になった事例を聞かない。

 同法を上野氏のように解釈されてしまう(実際疑っているつもりはないのだが)と、親の介護を少しでも負担に感じている子は、施設への入所を強く望む。「高齢者介護の社会化について合意が形成しやすい」ことはこのことを指すのだろう。「ぐるり」でおきた「棄老事件」でも、子は施設への入所を切望し、最終的には子の希望どおりになった。こうすることで「施設への入所」が親に対する最低限の責任遂行であり、免罪符の役割を果たすことにもなりかねない。

 「高齢者介護の社会化」というのは、これまでのように「我が家で介護する」ことも含め、行政主導型の介護政策の充実を意味する。2000年からスタートした「介護保険制度」はまさにこれにあたる。2006年に各自治体のなかに多くの「地域包括支援センター」が設けられ、地域の実情に合わせた対応を義務づけている。個人のニーズに合わせた施設が各地にオープンし、さまざまなセーフティネットが用意された。わたしが妻と田舎で母親を看た40年ほど前とは隔世の感がある。しかし、日常の現場で体験した「棄老事件」を、「子は親に対して生活を犠牲にしてまで面倒を見る義務はない」という「法的な切り捨て」にはいささか違和感を禁じ得ない。確かに、「子の生活に(著しく)影響を及ぼす」と感じた子は、満足に親を看ることは不可能だろう。その受け皿として公的な機関がある。わたしの両親を妻と二人三脚で看てきたという自負心は揺らぐことはないものの、現実として「棄老事件」と向き合ったとき、「実の子が親を捨てていくプロセス」を見せられたわたしにとっては辛く、正直空しさが残る。

(つづく)

<プロフィール>
大山眞人(おおやま まひと)
1944年山形市生まれ。早大卒。出版社勤務ののち、ノンフィクション作家。主な著作に、『S病院老人病棟の仲間たち』『取締役宝くじ部長』(文藝春秋)『老いてこそ二人で生きたい』『夢のある「終の棲家」を作りたい』(大和書房)『退学者ゼロ高校 須郷昌徳の「これが教育たい!」』(河出書房新社)『克って勝つー田村亮子を育てた男』(自由現代社)『取締役総務部長 奈良坂龍平』(讀賣新聞社)『悪徳商法』(文春新書)『団地が死んでいく』(平凡社新書)『騙されたがる人たち』(近著・講談社)など。

 
(58・後)
(59・後)

関連記事