失われた古代九州王朝の歴史(10)
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宋書の記述には、重要な事がたくさんあります。その主なものは、
・魏の五王は、九州のみではなく、朝鮮半島にまで勢力が及んでいること
・重要な意味を持つ「都督」の官位を得ていることすなわち、倭王たちは宋の皇帝配下の都督を公認されており、「安東将軍」という中国より東の領域(朝鮮半島を含む)の軍事長官に任じられていたということです。
現在、「大宰府」と「太宰府」という2つの漢字表示があります。この「大」「太」の点の違いは、実は非常に重要です。現在では、中世以降の地名や天満宮については「太」、古代の官庁については「大」を使うという慣例があります。しかし、本来は古代の官庁についても「太」を使うのが正しいのです。
西鉄大牟田線の駅名でも知られている「都府楼」。都府楼とは、「都督の府」のことです。都督とは、大和朝廷の官名「太宰帥」(だざいのそち。太宰府の長官のこと)の中国名なのです。中国の皇帝から授受した官位「都督→地方を治める最高官位」の政治を行う太宰府政庁が有った所ですので、太宰府が正しいのです。政庁跡の案内物には、“当時太宰は、筑紫だけではなく東国・播磨・吉備・周防という大和朝廷にとって地方統治上必要な各地の要衝に置かれていた。古代より筑紫太宰は、大和朝廷の朝鮮半島政策の為の外交・軍事上、重要な拠点でもあった、白村江の戦いに敗れた時、天智天皇が博多湾岸にあった「那津宮家」を665年太宰府の地に移したもの。大和朝廷にとって、過去から磐井の乱・隼人の抵抗などの歴史的背景があるため、701年の大宝律令制定でも、他のすべての太宰は廃止されたが、この筑紫太宰だけは残された"と記されています。
歴史にあまり興味をお持ちのない方なら、“なるほどそうか”で納得されましょうが、皆さまどう思われますか。
大和朝廷がつくりあげ、日本書紀・古事記に記していたことが、事実として延々と罷り通っていること。大宰府政庁を誰がいつ建造し、誰がいつ・何のために解体したかなどを含め、まだまだ数多くの謎を秘めた太宰府全体の遺構の事柄が解明できれば、卑弥呼・壹与からの空白とされる400年が見えてくるはずです。この太宰府政庁・都督府の建物がいつ建てられたかは解っていません。
「日本書紀」に西暦607年「筑紫太宰、奏上して…」という記載があり、その時には存在していた証拠になりますが、近畿大和の出先機関であるはず太宰府政庁がいつ建造されたのかなど、「日本書紀」には、一切の記述がありません。
これが何を意味するか。それは、大和朝廷は自分たちが造っていないからいえないのです。
太宰府は、当時の政治の中心地であることを示唆するいろいろな遺構が、現在も発掘されています。にもかかわらず、日本の史書にその記述がない。これが何を意味するのか、考える必要があります。(つづく)
【古代九州史家 黒木 善弘】<プロフィール>
黒木 善弘
1947年3月6日生まれ。九信電設(株)代表取締役。
社業は、福岡県警の交通信号分野の指定工事業者として、業界の会長職並びに電気工事業界でも、福岡県・全九州・全日本の役員を歴任し、2008年秋に黄綬褒章を受賞。
一方、社会奉仕活動として、ライオンズクラブに所属し、クラブ会長並びに地区・複合の各役委員を歴任し、現在福岡博多ライオンズクラブに所属する。
敬愛する古代史学者は、古田武彦氏、荒金卓也氏を挙げる。関連記事
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