2024年11月25日( 月 )

輸入合板と塗装合板のリーディングカンパニ―高千穂(株) 創業者の川井田豊氏が急逝

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川井田 豊 氏

 訃報が飛び込んできたのが、12日午前中のことだ。「高千穂代表取締役川井田豊氏が3月9日午前5時享年69歳にて急逝した」というものである。死因はくも膜下出血だそうだ。朝方、家族が発見したという。同級の友人が悔やむ。「8日の日に悪辣弁護士対策に関して電話で話していたので信じられない」。筆者自身も今年1月にこの友人と故人と3人で悪徳弁護士に関する情報交換をしながら会食したばかりであった。

 1998年頃までは毎月、夜の会食を行っていた間柄だったが、きっぱりと夜の付き合いがなくなった。その頃から体調が悪化してきていたので故人・川井田豊氏が夜の社交を断ち切ったからである。体調を悪くした原因は後で触れる。

 故人を一言で語れば『二代目ならぬ真の起業家』である。修猷館高校の同期たちからは「川井田は二代目のボンボン」と言われていたから、その度に「彼は創業者よ」と懇切丁寧に説明してきた。

実父が会社を乗っ取られる

 高千穂は豊氏の実父・川井田千穂氏が1953年1月に創業し、1957年3月に法人化した。千穂氏は鹿児島県から「木材販売で一山当てよう」という事業欲に燃えて上福した。故人・豊氏の出生は鹿児島県横川町(当時)であることはあまり知られていない。生粋の薩摩人だ。

 実父の千穂氏は魚函などの木製品が売れて業績絶好調の時期があった。周囲の同期たちは、この業績快調期をみて「川井田はボンボン」と見ていたのであろう。ところが家業は不良債権が相次いで傾く。結果、商社系列の木材商社による乗っ取りを許すのである。

 乗っ取られたのは1980年前後であった。川井田豊31歳の時である。ここから故人の孤独な闘いが始まった。実父が鹿児島から連れてきた番頭たちは裏切って乗っ取り企業へ身を託すようになる。先方の都合の良い資料を持ち込んで待遇交渉を企んだ輩もいたという。肝心の実父・千穂氏は戦意喪失し、権力のない会長職に身を委ねていた状況であった。反撃の策も浮かばなかったのであろう。

 川井田豊氏は人間の嫌らしい本性・裏切りを目の当たりにした。当時社長をしていた千穂氏におべっかを使っていた古参連中が、今度は乗っ取り進駐軍に忠誠心を持って接するのである。権力ゼロになった千穂氏にはまったく近寄りもしないのであった。鹿児島の田舎者連中を福岡に引き上げて飯が食えるように段取りしてくれた恩人を虚仮(こけ)にするシーンを見ながら故人の怒りの念が燃え上がっていったのは間違いない。

 豊氏の孤独な経営権奪回の戦いが開始された。基本は法廷闘争である。個人でも闘争できる法的知識を積むため独学に励んだ。あとで触れるが、この執着心・集中力にかけては卓越したものを持っている。豊氏の粘り強い交渉に先方も委縮し始めた。結果として買い取った金額の倍の値を豊氏が提示したことで妥結した。この会社買い戻しの経験は経営者として大飛躍する原動力となった。1984年のことである。川井田豊は新高千穂(当時高千穂産業が社名)を立ち上げ経営に専念するようになったのだ。 

新事業=塗装合板メーカーへの挑戦

筆者が約80回訪問した応接室

 経営権を取り戻したものの川井田豊氏は悶々としていた。「どのような仕事を本業にするか?単なる家主業ではつまらない」という問いの解決に思索集中をしていたのだが、容易に答えが浮かばない。2万坪の本社敷地にはテナントが多く入居しているからある程度の家賃収入はある。

 1987年、テナントであった三井農林が撤退することになった。この会社は合板製造を行っていたのだ。故人豊氏は決断した。「そうだ!!この事業を継承しよう」と。

 決断するのは容易だが、新規事業の立ち上げには試練が待ち構えている。製造業への挑戦は初体験である。三井農林の工場システムでは利益が上がらない。まずシステムを打ち壊すことから着手した。「人の手を煩わす工場内の生産過程を無人化するにはどうすれば良いのか?」という自問自答の日々であった。ヒントを求めてあらゆるところに出掛けたものだ。

 友人の紹介で合板乾燥装置メーカーへ発注したらトラブルだらけの商品が製造されてきた。裁判も含めてこの後始末に3年を要した。塗装合板の製造ラインが完成するまでには4年の時間がかかった。同業者との競争に挑めるようになったのは1991年の夏場ではなかったかと記憶している。この4年間、豊氏は工場に寝泊まりすることもあった。塗装合板メーカーへの変身・躍進の激務が故人の体を蝕むようになったのである。1998年ごろには体の無理がきかなくなった。この経緯を知れば実質的な豊氏が創業者であることを理解できるであろう。

 故人の寿命を短くさせるほどの新事業立ち上げの努力が功を奏した。自社考案の完全自動化ラインで塗装合板を月産15万枚生産。西日本一のメーカーの地位を確立した。またマレーシア産の合板輸入商社として基盤も不動のものとした。昭和・平成の2時代をまたぐ川井田豊氏の新事業=塗装合板メーカー・合板商社の立ち上げの挑戦のおかげで30年間、増収増益の業績を持続させてきたのである。

 故人・豊氏との思い出は数多くある。一番記憶に残っているのは1989年5月に富士丸で上海に行ったことだ。帰国後、北京人民広場での大虐殺が発生したが、上海でも共産党政権の政策に対して市民・学生の大デモが繰り返されていた。お互いに「中国では共産党政権が転覆するのではないか!!」と論じたものだ。

 若い時代に故人はアメリカに留学していた経歴もあり英語が堪能だった。海外では故人の語学力に頼り切りであった。カラオケにおいてはジャズ・カントリーソングを上手に(?)歌う。こちらは妬み骨髄の気持ちがあるから先に歌いまくってオサラバしていた。故人の歌を聞くとこちらがあまりにも情けなくなるからだ。

 事業の行く末には故人もまったく抜かりはない。三男・佳遠氏を事業継承者として時間をかけて育成してきた。また昨年夏からは四男・佳陽氏を社内に向かい入れた。いずれ社長になるであろう佳遠氏が安心した顔つきで、「弟・佳陽がいてくれるから心強い」と語る。豊氏よ!!君との別れは残念だが、実子佳遠・佳陽両氏で事業継承には支障がないであろう。安心したまえ。できるだけの応援はすることを誓う。合掌。

【児玉 直】

<COMPANY INFORMATION>
高千穂(株)
所在地:福岡県粕屋郡宇美町早見工業団地
業 種:合板加工販売
TEL:092-933-2664

 

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