鹿児島の歴史(5) 琉球と奄美
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前述のように、1609年、島津氏は琉球に出兵し、琉球王国を支配下に治めます。3,000余の兵が参加し、奄美の島々を順に攻め、ぼぼ1カ月で琉球を制圧しています。圧倒的な武力の違いがありました。主目的は、琉球貿易の利益を確保するためです。
15~16世紀の冊封(さくほう)制度(中国皇帝が周囲国の王を臣下とし、王の称号を与え、貿易も許した)のもとで、琉球は中国との公式貿易が1~2年に1回(日本の勘合貿易は10年に1回)で、全部で171回です。他国より圧倒的に多く、東アジア貿易の拠点でした。島津氏は、14世紀から海外貿易に進出します。薩摩は、医療用と火薬の原料となる硫黄(薩摩硫黄島産)を特産物として独占していましたが、明との直接貿易はかなわなかったため、朝鮮と琉球との貿易が中心となりました。朝鮮貿易は、1406~1504年間に正式な記録だけで126回におよびます。対馬の宗(そう)氏を除けば圧倒的に多く、硫黄のほか琉球を通じて入ってきたものを輸出していました。琉球貿易は、硫黄と蘇木(貴族の礼服用染料)が中心です。
島津氏は、朝鮮貿易における宗氏の地位を獲得するとともに、16世紀半ばには琉球貿易の独占体制を確立していました。琉球出兵にはこのような歴史的背景があります。
ここで、琉球と奄美についてふれておきます。琉球で統一政権が誕生するのは1429年です。王家は第一尚(しょう)氏(1469年からは第二尚氏)です。その後、奄美大島を攻めたのが1440年前後、最後まで抵抗していた喜界島を制圧したのが1466年です。奄美では、琉球王国支配下の時代を“那覇世(ナハンユ)”江戸時代の島津氏支配を“大和世(ヤマトンユ)”ともいいます。ただし、奄美は薩摩藩の直轄領になっても公式上は琉球王国領です。冊封制度の関係から、琉球が薩摩(日本)の支配下にあることは、明・清には隠さなければならなかったのです。
そのため、琉球に対しては、1624年に「大和めきたる(大和のような)名字の禁止」をしています。横田を与古田へ、前田を真栄田へなど漢字を変えています。また、中国は一字
姓のため、唐名といって、中国との交易の際には一字姓を使っていました。奄美に対しては、表向きは「琉球之内」です。そのため、島民の服装や容姿、名前を薩摩瀋(日本)の人々のようにはしないとしました。頭髪では髷と月代(髷が載っている部分)にしない(つまり総髪)、名前では五右衛門とか十兵衛とかにしないということです。また、藩は奄美の人々をすべて「百姓身分」とします。従って、奄美では100年以上名字を持つ人はいません。18世紀になって、佐文仁(さぶん)が開拓事業の功績を認められ、初めて外城衆中(=郷士)格となり、田畑姓を名乗ります(ただし、帯刀は日本人の姿のため禁止です)。その後、二字姓は不都合ということで、出身地(龍郷)の「龍」姓を名乗ります。NHK大河ドラマ「西郷どん」で愛加那が出てきますが、この龍家の1人です。
(つづく)
<プロフィール>
麓 純雄(ふもと・すみお)
1957年生。鹿児島大学教育学部卒、兵庫教育大学大学院修士課程社会系コース修了。元公立小学校長。著書に『奄美の歴史入門』(2011)『谷山の歴史入門』(2014)『鹿児島市の歴史入門』(2016 以上、南方新社)。監修・共著に『都道府県別日本の地理データマップ〈第3版〉九州・沖縄地方7』(2017 小峰書店)。ほか「たけしの新世界七不思議大百科 古代文明ミステリー」(テレビ東京 2017.1.13放送)で、谷山の秀頼伝説の解説などに携わる。関連キーワード
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