2024年12月29日( 日 )

鹿児島の歴史(7) 斉彬と久光

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 28代斉彬(1809~1858)は、幕末第一の英主で、複数のことを同時に処理して間違いのなかったことから「二つ頭(びんた)」といわれました。生母周子(賢婦人といわれた)と曽祖父・重豪の強い影響を受けました。座右の銘は、「思無邪(おもいよこしまなし)」です。ようやく財政再建を成し遂げた父斉興は、斉彬を後継にしたがらず、藩主になったのは40歳をすぎていました。藩主期間は7年です。1853年のペリー来航以前、すでに琉球では西欧諸国との開国・貿易問題がおこり、世子の斉彬は幕府から対応を依頼されたこともありました。
 斉彬は、洋式産業の開発その他による富国強兵策を実施しました。大規模なものとして、鉄製大砲の鋳造があります。(1)溶鉱炉(銑鉄をつくる)(2)反射炉(砲身の鋳造)(3)鑚開台(砲身に穴を開ける)が必要で、とくに反射炉建設が難しく、3つとも準備できたのは薩摩藩だけです。そのほか、軍事だけでなく製薬・印刷・出版・写真・食品等、事業種目は22にも及びました。これが真の富国につながる、という斉彬の考えです。
 1857年に、斉彬によって各種の製造工場を総称して「集成館」と命名されました。1,200人が働く東アジア最大の一大工業地帯でした。洋式船・蒸気船の造船事業や綿糸・綿布の需要を見越した紡績事業も実施しました。 1853年には、日の丸の旗を船印とするよう建議し、幕府は日本国総船印と決定しています。あくまでも外様大名だった斉彬にとって、このような事業を推進できたのは、老中・阿部正弘という理解者がいたという側面もあります。

 斉彬の不幸の1つは、6男5女に恵まれながらも6男がすべて夭折(ようせつ)したということです。臨終にあたって、忠義(弟・久光の子)を女婿とし、忠義の後継を六男・哲丸としますが、哲丸も翌年亡くなりました。娘たちも多くが若くして亡くなっています。
 斉彬の後、実権を握ったのが久光です。久光は、斉彬と比較され、何となく損な立場に見られることも多いですが、斉彬を尊敬し、また斉彬も久光のことを「優秀な人物」と認めていました。久光の政策は、ほぼ斉彬の遺策といえます。
 久光は、公武合体策を推進します。 1862年には、出兵上京し、幕府改革として一橋慶喜を将軍後見職、松平慶永(前・越前藩主)を政事総裁職に就任させています。帰国途中、生麦事件が起こり、翌年の薩英戦争につながります。薩英戦争で、集成館も反射炉以外は焼失しますが、この戦争の経験により、集成館復興の必要が痛感されました。
 1864年、不燃化のため石づくりの機械工場が建設されました。現在の「尚古集成館」です。1867年には、日本最初の洋式紡績工場が完成します。英国留学生が機械を購入し、英国人技師7人を雇いました。この紡績所は、明治初期、堺紡績所・鹿島紡績所とともに、我が国の3大紡績所でした。
 維新後、新政府への不満から長く要職にとどまることはありませんでしたが、久光・忠義とも国葬されています。

(つづく)

<プロフィール>
麓 純雄(ふもと・すみお)
1957年生。鹿児島大学教育学部卒、兵庫教育大学大学院修士課程社会系コース修了。元公立小学校長。著書に『奄美の歴史入門』(2011)『谷山の歴史入門』(2014)『鹿児島市の歴史入門』(2016 以上、南方新社)。監修・共著に『都道府県別日本の地理データマップ〈第3版〉九州・沖縄地方7』(2017 小峰書店)。ほか「たけしの新世界七不思議大百科 古代文明ミステリー」(テレビ東京 2017.1.13放送)で、谷山の秀頼伝説の解説などに携わる。

 
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