鹿児島の歴史(9) 西郷と大久保
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ここでは、明治維新の中心となった西郷と大久保にふれ、西南戦争を中心とする明治前期の鹿児島について述べます。
西郷隆盛(1828~1877)は、下級武士の出身ですが、斉彬の側近となります。江戸では「御庭方役」となり、藤田東湖や橋本左内の知遇を得ます。斉彬の死後、2回の遠島を経て、禁門の変や薩長同盟の成立、王政復古や戊辰戦争を主導し、江戸城無血開城も成功します。廃藩置県にも大きな役割をはたし、岩倉使節団の際は留守番役です。西郷の人物評には事欠きませんが、斉彬は「天性の大仁者」としています。座右の銘は「敬天愛人」。大久保利通(1830~1878)は、幕末に久光の側近として活躍します。「一蔵」の名は、久光から賜ったものです。維新後は、初代内務卿(実質上の首相)となり、学制、地租改正、徴兵令をし、富国強兵をスローガンとして殖産興業政策を推進します。座右の銘は「為政清明」「堅忍不抜」。死後8,000円の莫大な借金が残りますが、公共事業などに私費を投じていたためであり、このことを知っていた債権者からの請求はなかったといわれています。
このようにして、幕末の薩摩、明治前期の日本をリードした2人ですが、いわゆる1873年の征韓論論争で、袂を分かつことになります。
1873年、西郷は下野して、翌年鹿児島に私学校を設立します。私学校の中心は、銃隊学校(篠原国幹を幹部とする500~600人の歩兵隊)と砲術学校(村田新八を中心に200人の砲兵隊)です。ほかに幼年学校(士官養成学校)と吉野開墾社(教導団150人)がおり、数名海外留学もさせています。藩設立の「本学校」があったため、「私学校」です。1877年、政府と私学校との対立が決定的となり、2月挙兵します。 9月24日の城山陥落の西郷自決まで続きますが、「不平士族最大の反乱」でしたので、影響は多大でした。西郷軍の戦死、生死不明者は県内だけで5200余名(県外も含めると6,000名以上)、政府軍の戦死者も7,000名弱です。政府は一層の財政難となり、鹿児島は農業・工業・道路整備・鉄道開通など、復興には時間がかかり、かなり後れをとりました。西南戦争後、失業士族に働く場を与えたのが、士族授産です。大久保の働きかけや最大の士族反乱が起こった土地ということから、県への交付金は全国で最多でした。また、「今日薩摩に於ては(西南戦争の影響から)二十七、八歳から三、四十歳の寡婦および壮年女子の未婚者甚だ多く、一見實(じつ)に憐むべきの」状態(鹿児島市の女子超過数は928人)もありました(「薩摩見聞記」)。
その後、西郷は1889年2月、大日本帝国憲法発布の大赦(たいしゃ)令によって、賊名を除かれました。後年の銅像については、西郷は上野が1898年、鹿児島が1937年に対し、大久保の鹿児島銅像は1979年であり、随分と違いかありますが、西郷従道や大山巌が中心となった鹿児島市加治屋町の誕生地碑は、1889年3月、大きさ・文字・材料など、まったく同じ仕様で建立されています。
(つづく)
<プロフィール>
麓 純雄(ふもと・すみお)
1957年生。鹿児島大学教育学部卒、兵庫教育大学大学院修士課程社会系コース修了。元公立小学校長。著書に『奄美の歴史入門』(2011)『谷山の歴史入門』(2014)『鹿児島市の歴史入門』(2016 以上、南方新社)。監修・共著に『都道府県別日本の地理データマップ〈第3版〉九州・沖縄地方7』(2017 小峰書店)。ほか「たけしの新世界七不思議大百科 古代文明ミステリー」(テレビ東京 2017.1.13放送)で、谷山の秀頼伝説の解説などに携わる。関連キーワード
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