2024年11月25日( 月 )

中内ダイエーなくして、福岡がここまで発展することはなかった(13)~高塚猛のビジネス人生の2つの『If』(2)

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 誰もが生涯において、人生の決定的な岐路に立つ選択を余儀なくされることがある。平々凡々な人生を送る人は、その決断をしないままに終わる。高塚猛の場合には、その後の人生を左右する大きな選択が2つあった。(1)福岡ダイエー事業3点セットの再生案件を引き受けること、(2)ダイヤモンド社再建の大役を快諾することの2つである。何事も『If』(もしも)を論じても元には戻れないのだが、(1)での真逆の盛岡居残りを選択していたら盛岡の衰退は多少なりとも食い止めることができていたであろう。(2)の選択をしていたならば、ダイヤモンド社は現状以上に再生をはたしていたことは間違いない。

猛去って盛岡沈滞

 筆者は東日本大震災の被害状況を取材するために、4泊して現地を回った。最後の夜、2011年4月に、猛と盛岡グランドホテルで会食した。当時は、まだ猛には外出できる体力があった。レストラン内の雰囲気は、まだお客も入っており、活況を呈していた。
 ところが今回、17年8月31日(高塚猛葬儀日)の午前11時半から午後12時半まで同ホテルのレストランに滞在したところ、1時間の滞在で「もうこのホテルは駄目」と結論を下した。

 葬儀場のお寺さんに向かって下り坂を歩きながらホテルを見上げると、もう建替え時期に迫られている感じだ。「盛岡グランドホテル」を含めた経営母体(株)岩手ホテルアンドリゾートの業績は赤字の塊だ。経営実体が転々としている。赤字に悩まされている感じである。

 第1のIf『猛が盛岡に残っていれば…』。「人口が30万人を割った盛岡市の沈滞推移に対して、多少の歯止め役を担っていた」という程度は断言できるだろう。猛がいない以上、盛岡の若手のリーダーたちの活躍を望むしかない。

颯爽と福岡へ

 1988年、猛の師匠・江副浩正氏はリクルートのオーナーの座を剥奪された。だが猛が経営する安比総合開発の業績は好調であった。リクルートのオーナーの座は、かたちとしてはダイエー・中内功氏へ譲渡された。盛岡事業・安比事業の親会社はリクルートであるから、猛は次のオーナー・中内功氏に仕えることになる。証言者によると、97年あたりから功氏は盛岡に頻繁と足を運ぶようになったとか。

 97年前後の本体・ダイエーの経営状態は火の車である。そうなると、功氏にとって福岡ダイエー事業3点セット(球団・ホテル・福岡ドーム、以下3点事業)の経営に頭を使う余裕はない。「誰か立て直しの大役はいないか」と必死で探していた。その大役の白羽の矢を猛に放ったのである。
 口説きの数は4回だったそうだ。「そこまで懇願されるならば」と決断したのが52歳のとき。「盛岡に君臨していれば苦労することはない。それなのにダイエーから1円も援助を受けられない最悪の局面でよく引き受けたものだ」と筆者は感服する。

 「盛岡という田舎の天皇に飽きて、全国ブランドがほしいから福岡にやってきた」という解釈を述べる輩がいるが、的外れだ。1円も親・ダイエーが支援できない厳しい点について通告を受けていた猛の経営選択はただ1つ、金を使わずに売り上げることしかなかった。後に批判される「高級取りの選手を追い出した極悪人」という道を、好きで選んだのではない。金がなかったから(高額年俸を払えなかったから)、追い出したのだ。

 猛が表向き颯爽と福岡へやってきた99年、福岡ダイエーホークスは優勝をはたした。これは、猛がもつ強運が為せる業である。

金のない範囲での驚異的な創造策の披露

 猛の腹心が、ダイエーホークスから福岡ソフトバンクホークスで活躍している。この人の証言が興味深い。
 (1)常勝球団になるには金と補強が成立しないと達成できない。(2)日本ハムみたいに3年に1度優勝することが目的であれば、高給取りの選手は巧妙に送り出して若返りの道を選択する。(3)高塚さんのときは、オーナー・中内さんが金に糸目をつけずにスカウトした選手たちが育ってきた99年に優勝できた。だが、厳しい現実が待ち構えている。選手の報酬増大である。「高塚さんはあえて『悪人呼ばわり』を覚悟で、選手の人件費カットを行った」。優勝した翌2000年の選手報酬捻出には、猛は血反吐を吐いたという。

 もう少し内部を抉ろう。中内功氏の尻拭いの件である。3点事業には、ダイエー社員が数多く出向して幅を利かせていた。中内Jr.(正氏)に擦り寄って、権勢を好きなままに闊歩していた。3点事業の生え抜きとダイエー出向社員とでは、年俸の格差が歴然としていた。福岡事業の生え抜きの課長は年収が700万円、ダイエー出向課長は最低で1,200万円と500万円の開きがある。ここにメスを入れることが、コスト削減の近道である。

 猛は、料理接待事業の責任者A氏を営業本部副部長(取締役)に抜擢した。「Aさん!!頼むわ。営業も引き受けてください。ところで、心苦しいが年俸を減らさせてください。非常時ですから」と提起された年収は、80万円減の720万円である。A氏曰く「高塚さんの、褒めて褒めまくる言い草に乗せられてしまいます。一方で、『今頑張れば、会社の健全化は十分に可能だ』という説得力に促されて頑張りました。結果はご承知の通りです」。

 次に、ダイエー出向者たちを集めた。また、必要があれば個別に話をした。「Aさんは、料理事業の責任者で営業の経験はない。今回、営業本部副部長に就任することを快諾していただいた。さらに年俸を80万円減らしていただくことに了承を得た。皆さま方の年俸が異様に高いのは承知されていることと思う。業績が回復したら元に戻す。当分のカットには協力いただきたい」と申し出た。
 反対できる土壌は失われており、承諾するしかない。3点事業の再生のために、中内功氏の悪しき給料・人事システムを葬り去ったのである。

 猛は、多額の負債を抱えている3点事業の再生の要は、「地元に愛されること」という認識のもと、経営戦略を転換した。たとえば、ロゴマークの著作権をフリーにして、地元の飲食店・小売店が自由に使用することを許可する決断を行った。その一番手に、岩田屋をターゲットにした。岩田屋にかかった「頑張れ!!福岡ダイエーホークス」という垂れ幕を目撃した流通関係者は、首を捻ったことであろう。「競争相手のダイエーさんに岩田屋さんが塩を送った。時代の流れなのか」と自問自答した。

 今の福岡ソフトバンクホークスは、まずは『銭』を優先する。当然の帰結だ。猛の場合は、銭がない。「銭がなければ、どのように効率良く宣伝・周知徹底をして、観客動員を増やすか」と、一睡もせずにあらゆる策を講じていったのだ。その結果、3点事業で44億円の垂れ流しから15億円の黒字に転換させたのである。プロ野球で優勝させて、経営の面では短期間で黒字を達成させる。この猛の手腕は、全国ブランドとして評判が高まっていった。

 その名声の頂点が、ダイヤモンド社から発刊された「会社再建」である。発刊日は03年7月。著者は湯谷昇羊氏だ。この方は、「週刊ダイヤモンド」の副編集長のポストで腕を発揮していた人である。湯谷氏の発刊にあたっての弁では、「高塚猛氏とは8年前のホテル再建セミナーで知り合った。この時から傑物という印象を受けた」である。ダイヤモンド社への社長就任要請は、この「会社再建」発刊あたりに端を発しているのであろう。

(つづく)
 

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