平和な国には「平和な国の苦しみ」がある。どこまでも理想を追い求めることができる環境にいるから、「理想からの引き算」でモノを見ることになる。もっと良い成績、もっと良い暮らし、もっと良い評価、もっと良いポジション―「もっと、もっと…」という心の飢餓とともにある。それが「自分の思い」ではなく「他人目線」に依存しているから、なお苦しい。頑張っても、自己充足がなされ得ない。
欲望に訴えかけてくる
比較的豊かになると、手にしている富を失うことを恐れるようになる。豊かなのに、後退を恐れるがゆえに、幸せではないということもあり得る。これは貧困から抜け出した後で、後退を恐れるようになった中流階級の典型的な苦悩。日本はそんな病魔に冒されているのだろうか。
「両方向スリッパ」をご存じだろうか?筆者も洗濯物を取り込むときに、何度かベランダを出入りすることがある。その際、脱いだままの方向では出るときに反対を向いているスリッパが不便だと、その商品は前後の両方が頭になっている。片側だけの頭だと体の向きを反転させなければならないと、一部の人たちの間で便利グッズとして人気に火が付き、瞬く間にヒット商品になった。「両頭スリッパ」と呼んでいいのだろうか、両方が頭であるため、当然それは片側の頭を踏んで履くことになる。

商品は広告・CMで消費者を煽り、インフルエンサーが先陣きって喧伝し、実際の使い心地はどうだろうかと、YouTuberがその使用感を囁くようにリポートする。それらのレビューをみて、これだと腹落ちした多くのユーザーが店に走る。口コミで広がり、あっという間に売場から消えていく。たしかに便利だろう。これまでにはない面白い発想と斬新なデザインに高揚し、「こういうのが欲しかったんだよ」と支持される。「この値段で買えるならお得だよね」「あの人ももっているし」…と、たいして痛んでもいないのに、今あるものを買い替えていく。
でもそれって、「反対を向いて履き直せばいいんじゃないの?」…スリッパを履き始めて間もないころの子どもからはそんな声が聞こえてきそうだが、今の大人はどのように回答していくのだろうか。「両頭スリッパ」に慣れたこの子は、もう片頭スリッパには戻れないのだろう。売れれば何でもいいの?…ここが「もっともっと…」の臨界点。これでよしとブレーキをかけるか、“もっともっと”とアクセルを踏み込むのか。多品種少量仕入れでどんな要望にも応えられる商品構成で万全の下支えをし、今まで世の中になかったものをという挑戦から、また新たな商品が開発される。これをマーケティング用語では“欲望に訴えかける”というのだそうだ。
今までのものさしを外す
マスコミは次々に情報を推し流し、SNSが狂ったように情報を拡散する。かくして「良い」と言われたことに邁進し、「悪い」と言われたことを徹底的に忌避する人が増えた。他の人よりも、誰よりも、自分が充足したいから。
市場で当たればそれを模倣して他社が追随し、瞬く間にヒット商品とまつられ、大量生産の波に巻き取られる。しかし、売れなくなれば引き揚げられ、「一過性のものだったね」と別のものに置き換えられる。担当者はおそらく小学生レベルにまで意識を拡張させ、大人では気づき得なかった純度の高い視点やアイデアをもって、売れる商品をと企画する。その思想マインドへ駆り立てられた“消費主義の高速回転化”には、依然として歯止めがかからない。これは主導している企業側の姿勢や倫理観に、希望を託すしかないのだろうか。制御不能に陥った商品開発は、製造品だけにとどまらない。自分(筆者)のいる建築業界に自戒を込めて、その企画・生産の課題に向き合わなければならない。
日本には長らく、少子高齢化という課題が突きつけられているが、池田清彦氏は生態学から考えれば、日本にはまだ人が多すぎると言っている。国土面積などから考えると、6,000万~7,000万人くらいが適正人口ではないかと(ちなみに、100年前の1925年の日本人口はおよそ6,000万人である)。これから団塊世代が老人になって長生きをする。若い人の負担が大変なことになる。「人口減が良いなんてバカをいうな」と思う人もいるだろう。たしかに当分は、団塊世代の老後を支えるために、若い人の負担が増えるという計算があるが、それは過渡期を抜けるまでの30年ほどの話で、その後は自然に落ち着きを取り戻していく。つまり、あと30年の辛抱ということ(あと20年は働くであろう筆者は、そのうちの3分の2の間当事者となる。対岸の火事ではない者として、少し乱暴な言い回しをお許しいただきたい)。
我々は今までのものさしを外し、現在に合った適正な尺度で測り始める準備をしなければならない。たとえばGDPで測るとき、日本は世界の70分の1でいいんじゃないか。人口がそれだけしかいないから。それが世界第2位、第3位とか言っている。なぜそんなものさしを使う必要があるのか。整理・選択をする審判にその世界をイメージした青写真、肝心なのは、来たる社会へ向けての周到な準備だ。
100年前に比べて、平均寿命は40年以上伸びた。今や世界の人口は80億人を超えている。1980年ごろの世界人口は40億人ほどだったので、過去40年で倍に膨らんだことになる。人類繁栄は、もう十分になされていると言っていいのだろう。世界人口は倍になり、食料の量も倍になった。しかし、私たちは生産される食べ物の3分の1を捨て、8億人が飢えている。また世界では1分間に数百万ドルが消費され、数百万ドルが軍事予算に費やされている。なのに、貧困を救うお金がないとはどういうことだろう?何かがおかしい。こんなにも世界は資源であふれているのに、かつてないほど富は集中し、貧富の差は激しくなっている。この矛盾に立ち向かおうと、ホセ・ムヒカ氏(ウルグアイ第40代大統領)は政治の世界で闘っていた。

石油枯渇は悲劇か
世界で最も豊かなアメリカでは、人口の30%が深刻な肥満だなどという報告を読むと、どうやら我々人類は、今のようにモノにあふれる世界での生活に適応できないのではないかという気がしてならない。歩かずに自動車に乗る、身体を使わずに機械にやらせる、好きなものを好きなときに食べる、電灯を付けて夜更かしをするというような不自然な生活は、贅沢というより有害の域か──1965年刊行の家庭医学辞典には、「老人病」という項目と詳しい説明が出ている。ところが、その10年後の現代用語集を見ると老人病が消えて、同じ症状が40代で現れる「成人病」として出ている。さらに10年経った85年ごろには10代の子どもの「小児成人病」が登場し、96年にはついに「生活習慣病」へと進化する。60歳以上の老人病だった症状が、たった30年後には年齢不問で現れるようになってしまったのだ。今では5歳児でさえ5%前後、小中学生では10~15%に生活習習慣病の症状が見られるそうだ。子どもが生活習慣病になる最大の理由は、高脂肪、高カロリーの食事と運動不足、不規則な生活だ。「モノがあふれる豊かさ」の大部分は、動物としての人類、とくに人類の子どもにとって、不必要どころか有害なものへと変貌してきている(参考文献:『江戸時代はエコ時代』)。

我々が抱えている深刻な環境問題。根本的な原因は、利便性を追求した19世紀欧米の技術思想の延長上にあることを忘れてはならない。人口は増やしたい、消費を増やして経済を成長させたいが、環境は守りたいと思っているとすれば、あまりにも身勝手。そんな注文を自然の法則が受け入れると思っているとすれば、虫が良過ぎやしないだろうか。石油エネルギーをふんだんに使う大量生産、大量消費時代、また頭も身体も使わずに済む便利なエネルギー多消費型の生活の高価な代償である。我々が環境を維持しなくてはならない理由は、地球のためではなく、自分自身のため。本当の意味で自分に優しくするためには、過剰なエネルギーに依存しない質素な生活をしたほうが良い。
石油がなくなることは悲劇だろうか。アメリカでさえ、本格的に石油依存の生活が始まったのは20世紀になってからで、我々日本人の場合は高度成長期、石油依存度の高い日常生活を始めてから70年ほどしか経っていない。私たちはただ生きているだけで、ほんの70年前にはほとんど必要のなかった目的のために、膨大なエネルギーを使い、目先の便利さを満足させるために大量の二酸化炭素を排出し、地球規模の問題を引き起こしている。
消費主義の暴走
企業は“修理を困難にする製品”を設計する。競争を阻止する方針を採用する。消費者の選好を歪めるマーケティングメッセージを作成する。法律はそのような企業行動に対抗する重要なツールを提供する一方で、多くの場合、修理を妨げる企業の方針を可能にし、その責任に目をつむってきた。少なくとも、修理を人間の文化において正しい地位に復帰させる戦略を見つけ出さなければならない。
修理の歴史は、古くは石器時代までさかのぼる。石器の加工や壁画の修復、日本でも縄文時代に漆を接着剤として使用した修理の痕跡が発見されている。人類が技術を手にしてから私たちは修理し続けてきたのに、計画的陳腐化は何万年にもおよぶ修理の伝統から逸脱する行為だった。それが脅威に晒されるようになったのは20世紀のこと。それは必然的に地球を破壊して、人類の長期的な生存を脅かしてきた世紀でもある。せめて、モノの一生に責任を持つ意識は働かせたいものである。
資源には限りがあるのに、私たちの欲求には限りがない。企業は持続可能性に配慮した野心的な計画を発表し、意欲的なカーボンニュートラル目標を公約し、リサイクルプログラムへの投資を喧伝しながらも、一方では、毎年数十億台の消費者向けデバイスを生産して販売し、買い替えを促すという、ますますエスカレートするビジネスモデルを構築している。
たとえば電子機器をはじめとする耐久消費財について、世界規模で行われている生産、流通、廃棄は、驚異的な環境被害を引き起こしている。電子ゴミ(電気製品・電子機器の廃棄物)が問題なのは、それがヒ素や鉛、水銀などの重金属や、臭素系難燃剤などの有害物質を高濃度で含んでいるからだ。アメリカでは、埋立地に捨てられたゴミのうち、電子ゴミはわずか2%に過ぎないが、有毒廃棄物の実に70%を占める。これらの毒素は時間の経過とともに周囲の土壌に浸み込み、地下水を汚染し、食料供給に影響をおよぼす恐れがある。また、世界中のあちこちの埋立地では、固形廃棄物を焼却して酸性の煙や汚染物質を空気中に放出する。その結果、埋立地や電子ゴミ処理場の近くでは毒性の濃度が非常に高くなり、健康と安全の基準を大幅に超えてしまう。ある研究によれば、インドの電子ゴミ処理場付近の重金属濃度は表土で通常の30倍、下層土サンプルでは約120倍も高かったという。我々は便利さと引き換えに、自分たちが生きていくために食べなければならない食物を汚染させているのだ(参考文献:『修理する権利』)。
国連も認識するように、修理という選択肢の不足によって、世界の都市化と工業化の副産物である電子ゴミの山が築かれる。地球規模の消費ネットワークを打ち砕くうえで、“修理という行動指針”はとても重要だ。すでに所有しているものを修理すると、より長持ちする新製品に対する需要が減り、グローバルな電子ゴミの流れが緩やかになる。テクノロジーの恩恵を否定することなく、現代の消費主義がもたらす環境負荷を、多少でも軽減できるだろう。

(つづく)
<プロフィール>
松岡秀樹(まつおか・ひでき)
インテリアデザイナー/ディレクター
1978年、山口県生まれ。大学の建築学科を卒業後、店舗設計・商品開発・ブランディングを通して商業デザインを学ぶ。大手内装設計施工会社で全国の商業施設の店舗デザインを手がけ、現在は住空間デザインを中心に福岡市で活動中。メインテーマは「教育」「デザイン」「ビジネス」。21年12月には丹青社が主催する「次世代アイデアコンテスト2021」で最優秀賞を受賞した。

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