奄美・トカラの歴史(4)~与人と郡司~
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1609年の琉球出兵は、島津氏の琉球貿易確保が主目的でしたが、1632年の藩の家老から琉球在番奉行宛ての文書から七島衆の勢力がわかります。「七島衆は中国と交易をしている」「七島衆から藩が借金したい」「七島衆は琉球とも交易をしている。借金を琉球との交易条件としたい」「七島衆で琉球居住者もいる」などです。那覇市には「トカラ小路」の地名もあります。鎖国政策の強化により、貿易が制限され、最終的には禁止となり、江戸時代には船や操船技術はあるため、海運業者のような立場となります。
砂糖や一字姓などについては前述しましたので、ここでは統治機構から述べます。奄美・トカラとも藩から派遣された役人や島出身の島役人が中心です。
奄美では、1623年大島統治の基本方針である「大島置目之条々」が定められました。那覇世時代の大親役が廃止され、与人(よひと)が島役人のなかでは最高位となりました。1633年には、派遣役人の最高位が「奉行(総責任者)」から「代官(行政官)」に変わります。島の統治が安定したということです。行政区画は那覇世時代の間切がそのまま用いられ、1間切は数集落から十数集落からなる「方(ほう)」で構成されました。大島は7間切13ヶ方です。また、島役人には島内異動がありました。一般的傾向として、出身間切で下級島役を経験し、その後他間切へ異動、与人になるまでに20~30年の経験が必要であり、与人になるのは40歳前後と考えられます。与人は、3年交代で、7年交代での異動もありました。今でいう「転勤族」で興味深いです。与人は鹿児島に行く(上国(じょうこく)といいます)こともありました。上国制度の開始は1691年で、上国のための費用は島民負担です。鹿児島に行った与人は「上国与人」と言われ、殿様に「御目見得(おめみえ)」が許されるなど厚遇されました。
トカラでは、島役人の最高位は「郡司(ぐんじ)」です。一般的には主に平安時代の国司・郡司です。都から派遣される国司と地元の有力豪族が任命された郡司です。もちろん、平安時代のトカラに郡司が置かれたわけではありません。前回、中之島郡司の言い伝えを述べましたが、「郡司」の初見は1691年の宝島郡司です。
これには当時の冊封制度、薩摩・琉球・トカラの関係が複雑に関係します。琉球王国を支配下に置いた薩摩藩は、琉球国王を1635~1712年の間「琉球国司」と名乗らせます。冊封制度のなかで、中国に対する「皇帝-琉球国中山王」の関係に対して、日本では「将軍-琉球国司」とするのです(このころ、ほかでは「マニラ国司」もいました)。さらに、冊封制度の関係から、琉球は中国以外とは交易ができない建前でしたので、日本(薩摩)との交易を、琉球の「属島」であるトカラ(宝島)と交易をしている、としたのです。それでトカラの各島の長を「琉球国司」に対する「郡司」としたのです。
(つづく)
<プロフィール>
麓 純雄(ふもと・すみお)
1957年生。鹿児島大学教育学部卒、兵庫教育大学大学院修士課程社会系コース修了。元公立小学校長。著書に『奄美の歴史入門』(2011)『谷山の歴史入門』(2014)『鹿児島市の歴史入門』(2016 以上、南方新社)。監修・共著に『都道府県別日本の地理データマップ〈第3版〉九州・沖縄地方7』(2017 小峰書店)。ほか「たけしの新世界七不思議大百科 古代文明ミステリー」(テレビ東京 2017.1.13放送)で、谷山の秀頼伝説の解説などに携わる。関連キーワード
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