奄美・トカラの歴史(6)~明治-戦前~
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明治以降です。奄美は明治12年に鹿児島県大島郡となります。明治6年県庁のほかに6支庁が置かれますが、第五支庁の管轄に「十島(じっとう)」が初めて出てきます。今の三島(硫黄島・竹島・黒島)村と十島村(7島)ですが、両者は距離的にも100km程離れており、江戸時代まで直接的なつながりはありません。明治になって1地域とされます。十島は、行政的には昔ながらの川辺郡です。その後、奄美に近いことから明治18年に奄美大島の金久支庁管轄、同30年大島郡へ編入、同41年大島郡十島村(じっとうそん)となります。
戦前の奄美・トカラで特筆すべきは、明治21~昭和15年まで、「大島郡独立経済(分断財政)」を敷いたことです。これは大島郡の財政を県財政と分離し、大島郡独自に行うというものです。県本土と大島郡とは風土や生業などが違うこと、本土の本格的道路整備事業の費用を恩恵を受けない大島郡民に負担させるのは忍びないなどの考えからでした。県当局は反対でしたが、国全体の補助も必要などの考えもあり、実施されました。
その結果、当初島庁予算は本庁予算の約10%でしたが、3年後にはわずか3.4%となり、1人あたりの支出額も本庁の30銭に比べ、島庁は7銭でした。土木費、勧業費などは極力抑えられ、社会資本および産業資本の形成に著しく遅れが見られました。明治末以降、議論はなされても予算などはなく、とくに大正末からは「蘇鉄地獄」と称されるほどの疲弊ぶりで、昭和2年に来島した県知事は「奄美の経済は下痢患者のようだ」と述べた程でした。
昭和2年には、南方軍事施設視察が目的の「大島行幸」がありました。この行幸を契機に、大島郡に目が向けられ、昭和4年から「大島郡産業助成計画」、同10年から「大島郡振興計画」が実施されました。
この間、とくに厳しい状況にあったのが、十島村です。十島村には「大島行幸」自体が知らされておらず、情報不足が国防面からも問題となりました。下賜金5,000円もあり、昭和5年に十島村の各島に公立小学校が設立され、同8年には村民の長年の悲願だった村営船十島丸(155㌧)が就航し、月間4往復しました。国には航路補助予算がなかったため、道路整備予算を転用し、「汽船もまた道路なり」の言葉も生まれました。
トカラでは、農業は焼畑農業が中心でした。そのため土地の公平分配よりも収穫高による分配が合理的であり、地租改正による農地所有者の決定も中途半端になりました。
戦時中は、農業・漁業などで自給自足に近かったため、「こんなに作物のできる土地に生けるは幸福か不幸か、総力を上げて困苦欠乏に耐えんとする時、物がありすぎて実感なし。」(昭和20年元日の中之島小学校長の日記)という具合でしたが、制空権を米軍に握られると、十島丸は来ない、漁業もできないということで、一挙に食糧難となりました。昭和20年には、奄美群島の中心「名瀬」の大空襲があり、市街地の90%を焼失しました。
(つづく)
<プロフィール>
麓 純雄(ふもと・すみお)
1957年生。鹿児島大学教育学部卒、兵庫教育大学大学院修士課程社会系コース修了。元公立小学校長。著書に『奄美の歴史入門』(2011)『谷山の歴史入門』(2014)『鹿児島市の歴史入門』(2016 以上、南方新社)。監修・共著に『都道府県別日本の地理データマップ〈第3版〉九州・沖縄地方7』(2017 小峰書店)。ほか「たけしの新世界七不思議大百科 古代文明ミステリー」(テレビ東京 2017.1.13放送)で、谷山の秀頼伝説の解説などに携わる。関連キーワード
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