2024年12月23日( 月 )

三顧の礼で招いたプロ経営者を2度続けて解任 創業家出身、潮田洋一郎氏の迷走

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 住宅設備大手のLIXILグループは、創業家の潮田洋一郎氏が会長兼最高経営責任者(CEO)に就いた。三顧の礼で招いた藤森義明氏、瀬戸欣哉氏の2人のプロ経営者のクビを切り、経営権を奪還した。潮田氏の迷走をもたらしたものは何か。父と子の確執に遡ることができる。

瀬戸氏を解任した潮田氏が「プロ経営者」宣言

 10月31日、LIXILグループは、瀬戸欣哉社長兼最高経営責任者(CEO)がCEOを退き、創業家2代目の潮田洋一郎・取締役議長が11月1日付で会長兼CEOに復帰した。潮田氏がCEOに復帰するのは2011年7月以来となる。
 瀬戸社長は2019年3月末で社長を退く。後任には社外取締役で、11月1日に最高執行責任者(COO)となった山梨広一氏が就任する。
 潮田氏が社長のクビを切るのは、中国子会社の不正会計を機に解任した藤森義明前社長についで2度目。瀬戸氏は藤森氏と同様、「プロ経営者」として迎えられたが、3年半でクビになる。
  各メディアは、異様な会見模様を伝えた。

 潮田氏は会見で、瀬戸氏に対する不信感を口にした。

〈「LIXILは純粋持株会社でなくてもいいのでは」。2016年6月の社長就任を機に、瀬戸氏が放った一言に潮田氏は驚いたという。
「先を見据えて価値のある事業を見極める純粋持株会社と、目の前の問題に対処する事業会社とは違う。瀬戸さんとの認識の違いが最後まで埋まらなかった。〉(東洋経済オンライン11月12日付)

 一方、瀬戸氏は会見で、〈「(潮田氏と経営の方向性が)違ってきた」と指摘し、「対立するより潮田氏に(経営を)やってもらったほうがいい」と説明した〉(時事通信10月31日付)

 その言葉には、「潮田氏に経営をやれるのですか」という痛烈な皮肉が込められている。
 潮田氏と瀬戸氏は喧嘩別れした。
 潮田氏は、経営者と見なされていないことがシャクだったようで、日経ビジネスオンライン(11月2日付)のインタビューで、「私もプロ経営者だ」と仰天発言をしている。
 プロ経営者2人に経営を任せてきましたが、今はどんな気持ちですかと問われて、「私もプロといえばプロかもしれない」と口にしているのだ。

 冗談はやめてくれと、深いため息が聞こえてきそうだ。経営者に向いていないと最もわかっていたのは洋一郎氏自身であったからだ。洋一郎氏を経営権奪還の行動に駆り立てたものは、父親・健次郎氏に対する対抗心ではなかったのか。

一代で1兆円企業にまで育てた稀代の起業家

 潮田健次郎氏(1926~2011年)は東京都生まれ。小学6年の時に結核を患い、20歳近くまで8年間サナトリウムで過した。病床で読書に没頭しながら独学。戦後、父親・竹次郎氏が経営する建具小売店「妙見屋」を手伝った後に独立。1949年に日本建具工業を設立、木製家具の製造を開始した。これが、トーヨーサッシ、トステム、住生活グループ、LIXILグループと変遷する出発点だ。

 父は「人と同じことをしていたら、人と同じ結果しか得られない」と教えてくれた。奉公時代に他人の何倍も努力したから、自分の店がもてた。兄弟子たちは石工のままに終わった。
 父親の教えが、時代のニーズに合った新製品の開発、独創的な物流改革を成し遂げる起爆剤になった。1966年には建具のアルミ化の流れをにらんで、住宅用アルミサッシに進出。1975年に業界首位に立つ。その後、住生活関連の事業の総合化を進め、2001年にINAXと経営統合。事業欲はとどまることを知らず、建材業界の「買収王」と言われた。

 2006年に悲願だった売上高1兆円を達成。それを花道に引退した。健次郎氏は誰もが予想していなかった後継人事を断行した。長男の洋一郎氏を会長に据えたのだ。経営者の器にあらずと、一度は副社長から平取締役に降格させていた。親子の確執は周知の事実で、洋一郎氏の名前は下馬評にものぼっていなかったから、あっけにとられた。

「仕事の鬼」父親に対するコンプレックス

 潮田洋一郎氏は1953年12月21日、健次郎氏の長男として生まれた。1977年東京大学経済学部卒業、米シカゴ大学大学院で経営学修士(MBA)を取得した典型的な秀才コースだが、「仕事の鬼」の父親の陰で、長く鬱屈した人生を歩んだ。

 勘と馬力で日本一のサッシメーカーを築いた健次郎氏の叩き上げ人生に対するコンプレックスからだろうか、洋一郎氏は商売一筋の父親とは対極の趣味に走る。その趣味はハンパではない。

 幼馴染の米倉誠一郎・一橋大学教授が『日経ビジネス』(2009年8月31日号)で、こう語っている。

 「幼馴染みと40数年ぶりに痛飲した。住生活グループを率いる潮田洋一郎君とである。数寄者・粋人にとなっていた彼の(歌舞演劇の)東西古典、小唄・長唄・鳴り物(歌舞伎で用いられる鉦、太鼓、笛などの囃子)、茶道具、建築にわたる学識と行動力に圧倒された」

 茶道、書道、花道、能、邦楽などの薀蓄は玄人はだしと評されている。御曹司のステータスであるモータースポーツにも凝っていた。1991年から3年間、自動車レースF3000に参戦した。父親から疎んじられていた洋一郎氏は、その鬱憤を晴らすかのように「現代の粋人」に耽溺していたのである。
だが、血は水よりも濃い。健次郎氏は洋一郎氏を会長兼CEO(最高経営責任者)に大抜擢した。父の「抑圧」から解放された洋一郎氏は、いよいよ出番を迎えた。しかし、趣味に生きてきたため、経営は素人同然だ。会長としての仕事は、経営を任せる「プロ経営者」探しに費やされた。藤森義明氏と瀬戸欣哉氏と2代続けてプロ経営者を招聘した。

 彼らの仕事ぶりを見て、自分もやれると自信をもったのではないか。それが会長兼CEOに復帰しての「自分もプロ経営者だ」との発言になった。父のような「買収王」になるつもりなのだ。

 父親の健次郎氏には「会社は経営者の器以上に大きくならない」という名言がある。器とは度量のこと。どんなに有能でも1人の力には限界がある。器が大きい経営者は、いろいろな個性の人材を生かして、事業を発展させるという意味だ。
 2人の個性的なプロ経営者を生かせなかった潮田洋一郎氏は、父親の言葉をどう聞くだろうか。

【森村 和男】

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