映画『人生フルーツ ある建築家と雑木林のものがたり』を観て(前)
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大さんのシニアリポート第75回
ドキュメンタリー映画『人生フルーツ』(東海テレビ制作/監督・伏原健之)を観た。主人公の津端修一は建築家である。日本住宅公団(現・UR)創設時の1955年に入社。名作といわれた「多摩平団地」(東京都日野市、1958年竣工)、「赤羽台団地」(東京都北区、1962年竣工)、「高根台団地」(千葉県船橋市、1961年竣工)などの設計に携わった。津端の設計コンセプトは、「明るく開放的で緑あふれた団地」である。団地内にもともとあった木々を残し、さらに植樹をして豊富に緑を盛り込む。そのために建物と建物との間が広く取られ、生活にゆとりをもたせる設計とした。多摩平団地のパンフレットには、「富士の見えるニュータウン・40万坪の街」と記されていた。
津端は東京大学で丹下健三の教えを受け、卒業後は住宅設計の巨匠・前川國男の紹介でアントニン・レーモンドの事務所に入り、その後、板倉準三の事務所を経て、日本住宅公団の創立メンバーに加わった。
津端の真骨頂は、前川國男のもとで設計に加わった阿佐ヶ谷住宅(東京都杉並区、1958年竣工)だと思う。地上3・4階建ての鉄筋コンクリート造り(日本住宅公団設計)118戸と、地上2階建てテラスハウスタイプ(補強コンクリートブロック造り)232戸(前川たちが設計担当したのはそのうちの172戸)とでなる。豊富な緑地を配置設計した津端は、この緑地を「コモン(共同の、共有の)スペース」と呼び、「個人のものでもない、かといってパブリックな場所でもない、得体の知れない緑地のようなもの」と評し、「市民たちによる新しい関係性をどのように結ぶことができるか」をテーマにした。
私も8年前(平成23年)の春にここを訪ねたことがある。建替え計画が進むなか、退去を拒否する住民がわずかだが住んでいた。連棟式の家と家をつなぐ小径は、人1人やっと通ることができるほどの狭さで、すれ違うときには嫌でも挨拶を交わすことになる。家の前にある木々、果樹は各戸の住人が自主的に植えた。キュウリやトマトなどの菜園、花畑も自由につくることができた。「自然、緑をふんだんに取り込み、住民共同で管理する」というコンセプトは、かつて日本のどこにでもあった「村落共同体」を思い出させる。一方で、広場を含めた共有のスペースはおどろくほど広く設けられている。津端が「風土派」と呼ばれるようになったのは、こうした体験が背景にあったと思える。
「当時、衛生面でも良好とはいいがたかった一般市民の生活。それを、西洋諸国に劣らない水準まで押し上げ、豊かな生活環境を提供すること。そのためのデザインや設備、構造、工法などの追求が、初期の公団に課せられた重要なミッションでした」「当時、戦後最高の技術を見て、それを市民にプレゼントしたいと思って僕は公団に入った」(ブログ/千葉敬介・東京R不動産)と、津端が最終的に一般の建築事務所ではなく公団を選んだ理由をこう述べている。しかし、地方から大都市への急激な人口増加にともなう住宅不足が、津端の理想とする公団建設の理念を打ち砕いていった。
津端は急激に変貌する東京に見切りをつけ、故郷の愛知県春日井市で建設予定の「高蔵寺ニュータウン」に参加する。団地全体の配置デザインを任された津端は、「団地を建てる前の自然形態を壊さずにそのまま残し、その記憶を住まい手に伝えていこう。『自然と人間の関係を問い直す』」ということを意識して描いた。
しかし、生まれ故郷でさえ津端の掲げる理想とは大きくかけ離れていった。戸数を増やすために森の木々を伐り、丘を削り、谷を埋め、更地にして建設面積を増やした。住宅公団は、「大量に均質な設計で建物の『標準化』」に拍車をかけた。すべてを標準化することで、住宅の質も時間も金も節約することを可能にした。人が住む住宅を「商品化」することで解決をみた。ここに、世界に名だたる狭小で味気ない「ウサギ小屋」を誕生させたのである。津端は公団を去る。「人間が暮らす住宅」という、未来を見据えた思想は理解されなかった。後日、津端は「できた、できなかったなんていうのは、その時代と僕たちの力関係のなかで決まることで、一時的なことに過ぎないと僕は思う」と述べている。
(つづく)
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