2024年11月14日( 木 )

パナソニックの創業家出身、松下正幸副会長が退任 創業家と経営陣の抗争劇の幕がやっと下りる(後)

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世襲に断固反対の先頭に立つ山下氏

 山下氏は世襲に断固反対だった。松下電器ほどの大企業で、創業家という理由だけで世襲は許されてはならない、というのが山下氏の基本的考え方である。

 1986年、山下氏は後任社長に谷井昭雄氏を据えた。谷井氏には、1つの重要な使命が課せられた。松下家と松下電器の関係に明確な一線を引くこと。山下氏自身でなし得なかった正治氏に引導を渡して、引退してもらうことだ。

 1989年の幸之助氏の死去を境に、社長・谷井氏は思うところがあったのだろう。「正治氏に辞めてもらう」という前任者の山下俊彦氏から引き継いだ課題の行動を開始する。愚直なほど生一本の性格な谷井氏は、正治氏のもとを1人で訪ね、直接「退任するように」と頼んだ。しかし、創業者の幸之助氏や“中興の祖”と言われた山下俊彦氏さえできなかったことを、新社長・谷井氏ができるわけがなかった。

 正治氏のほうが役者は一枚も二枚も上手だった。バブルの時期に、大阪の料亭の女将・尾上縫に融資していたナショナルリース事件を口実に、正治氏は谷井氏を引責辞任に追い込んだ。

 人事権を握った正治氏は1993年に森下洋一氏を社長に据え、院政を敷いた。会長・正治氏にとって、悲願としてきた松下家への大政奉還の道が、開かれようとしていた。

 世襲に大反対していた山下俊彦氏が社長を退任したのと入れ替るかたちで、長男の正幸氏を40歳の若さで取締役に引き立てた。谷井社長の下で、正幸氏を常務取締役、専務取締役と昇進。谷井氏は、正治氏を退任させた後、松下家に一定の処遇をすべく、正幸氏を無任所の副会長に棚上げすることを狙っていた。

 正治氏による谷井氏の追い落しが成功し、風向きが変わった。森下洋一社長は、社長就任の3年目の1996年5月、正幸氏を副社長に昇進させた。松下電器の社内では「御曹司の社長就任」が公然と囁かれた。

山下氏の捨て身の世襲批判

 大政奉還の雰囲気に冷や水を浴びせたのが、3代目社長から相談役に退いていた山下俊彦氏である。有森隆著『社長争奪』(さくら舎)収録の「パナソニック 創業家の世襲が断たれるとき」はこう書いている。

 〈正幸が副社長に就任した翌1997年7月15日、山下は自身が会長を務める関西日蘭協会のパーティーの席上、大勢の記者を前に正幸の副社長昇格を痛烈に批判した。
 「今の松下はおかしくなっている。孫というだけで、(松下)正幸氏が副社長になっている。(役員陣の)8割が正治派。しかも、若い人ほど世襲への批判が少ない。困ったことや」
 山下の爆弾発言を受け、マスコミ各社は翌16日の夜に、吹田市内にある山下の自宅に駆けつけた。そこでも、山下は改めて、前年の正幸の副社長就任を始め、今後予想される社長就任の可能性を含めて大々的な世襲批判を行った。
 「大きな会社でオヤジが会長、長男が副社長というのはおかしい。幸之助さんの孫というだけで副社長になる能力がない人が副社長になってしまった。会長も80歳を過ぎた。そろそろ辞めてもらわなければならない。幸之助さんも世襲には反対していた」〉

 山下氏の爆弾発言で、社内外で世襲批判が高まった。最高実力者の正治氏は反抗を許さない。山下氏は、それから2年後、相談役の退任を迫られ、特別顧問という肩書の閑職に追いやられた。松下電器の社内には世襲批判をできる人物は1人もいなくなった。

 正治氏は世襲を批判する役員を取締役会から放逐。正幸政権誕生という大願成就を目の前にしていた。だが、掌中から運がこぼれ落ちた。正幸氏は社長になれなかった。

松下興産の経営危機

 世襲問題に終止符を打ったのは、松下家の資産管理会社・松下興産の経営危機だった。松下興産は幸之助氏が社長を退くと、事業は娘婿の正治氏の一家が引き継いだ。会長は正治氏、後任社長は正治氏の長女・敦子さんの娘婿、関根恒雄氏が就任した。

 関根氏は、資産管理会社だった松下興産をデベロッパーに大変身させた。バブル期に和歌山のリゾート施設、マリーナシティなど過剰なリゾート投資を始め、豪州の高級ホテルや高級ゴルフ場など海外の大型案件を次々と買収。ピーク時には有利子負債が1兆円の膨れ上がった。

 松下家のファミリー企業のため、再建には松下電器の資金面での支援は不可欠だ。1999年には住友銀行と松下電器から1,500億円規模の支援を受けた。2004年には不動産売却損が積み上がり、1,400億円の債務超過に陥った。松下電器主導で松下興産の清算が進められた。2005年3月、松下興産は清算、外資系投資ファンドが支援したMID都市開発が、マンションなど優良事業を引き継いだ。MIDは現在、関西電力の連結子会社となっている。

世襲経営は封印された

 正治氏が、というより幸之助の長女、幸子氏が、あれほど執念を燃やした正幸氏の社長就任を断念したのは、松下電器に松下興産を支援してもらうための窮余の一策だった。世襲経営は封印された。

 パナソニックには企業の自律性(=バランス感覚)が残っていて、正幸氏が社長になることはなかった。最大のヤマ場は2000年6月の社長人事。森下氏は中村邦夫氏を6代目社長に引き上げ、世襲問題は決着した。森下氏の英断と称賛された。正治氏は相談役名誉会長に退き、副社長・正幸氏は副会長に棚上げされた。何の権限もない名誉職である。

 脱創業家が進む。2008年、松下電器はパナソニックに社名を変更。社名から松下の名前が消えた。12年に正治氏は死去した。99歳だった。

 正治氏は「経営の神様」からの呪縛が解けることはなかった。「毎晩のように夢を見るが、70%は幸之助が出てくる」とメディアとのインタビューで語っている。自尊心をズタズタにされ、ほとんど憎悪の感情しか抱いていない幸之助氏の悪夢に、最後まで苦しめられていたということだ。

 偉大な創業者を超えることができない、2代目経営者の悲哀を背負った人生だった。そして、松下家3代目の正幸氏が今回、退任し、半世紀以上におよんだ抗争の歴史の幕が下りた。

 今、経済界を賑わしているLIXILグループなどの世襲企業は、松下電器(パナソニック)の内紛から、何を教訓として引き出せばよいのか。

 創業家は「資本と経営を分離せよ」ということだ。

(了)

【森村 和男】

(前)

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