2024年11月21日( 木 )

【追悼文】卓越した経営者・上村秀敏社長急逝~唯々、驚愕するのみ

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上村建設(株)代表取締役 上村秀敏氏

 7月28日(日)の夕方、上村建設の取引先から「上村社長が心不全で亡くなられたらしい」との一報が入った。筆者は一瞬、「嘘だろう」といぶかしんだ。つい先日、松本組の平島義和専務の通夜でお会いしたばかりだったからだ。確かに顔色がすぐれなかったのは気がかりだったが、まさか亡くなられるとは、にわかには信じられなかった。

 29日(月)に知ったところによると26日(金)夜、芥屋にある上村建設の保養所に上村社長夫婦は宿泊された。翌朝、ご夫婦で近くにある立石山で散策をした。するとその途中、上村社長が心不全に襲われ、痛みのあまり座り込んだという。当然、救急車を呼んだが、土地勘がある人なら誰でもわかると思うが、救急車の到着は最短でも30分はかかる。上村社長にとって、この初動措置の遅れは、あまりにも不運だった。

 30日(火)午後6時から中央区古小烏町にあるユウベル積善社福岡斎場で通夜が行われ、故人と親交があった約800人が参列に駆けつけた。

 通夜では、ご遺族の意向もあり、故人との「対面・お別れの場」が設けられていた。筆者は2回、延べ4分、上村秀敏社長の亡骸と向かい合った。「68歳という若さで天国へと旅立つ無念さ、上村社長の心中を推し量ると、とても悔しいです」と呟きながら「本当に卓越した経営者であった」と再確認した。

故人を偲び多くの人が参列した。

傑出・卓越・傑物・不屈経営者とさまざまな評価はあるが…

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 上村社長を評価する言葉はいくらでも語れるが、過去の実績に対面すれば誰もがその凄みに圧倒される。上村建設の12期の業績推移をみていただきたい。12期で完工高200億円を割ったのは10年、11年の2期だけである。これはリーマン・ショックの影響を受けたからだ。建設業者は2~3年後の決算に影響が現れる。リーマン・ショックで不動産業者・ゼネコンの倒産が続出したのは周知の事実。

 上村社長にはお会いするたびに苦言というよりは助言をしたつもりだった。「無理して完工高200億円を維持しなくてもよいのではないですか?」と凡人なりの提言をした。「おっしゃることはわかります。しかしね、200億円という至上命令というか全社共通の課題を少しでも達成できなくなると、すぐにタガが外れるのが組織の法則ですよ」といつも同じ返答をいただいた。2代目で事業継承して、これだけ事業拡大に強い使命感を燃やしてきた経営者にはお目にかかったことがない。まさに不屈の精神力の持ち主である。

 業績の推移に再度、向き合おう。いくら上村建設が不死身でも完工力には限界があるだろう。無理をすれば300億円超の完工高達成は可能だったが、安全、着実な道を歩んできた。現在、250億円~270億円で推移する見込みである。

 現場は一部、久留米・北九州があるが、90%は福岡都市圏での実績なのだ。上村社長が残した印象的な言葉の1つに「福岡都市高速環状線を廻りながら弊社の看板が見えない空白地域を発見すると、すぐさま手を打った」というものがある。

 上村建設の業績で感心するのは、しっかりと納税していることである。この2期9億、7億以上の納税を行っている。そして最後に同社の凄さの全貌がみえてくる。この12期の間に純資産が74.8億円~204.4億円へと約130億円も増加しているのだ! 1期平均で約12億円増やしている勘定になる。この数字からも上村社長がとても卓越した経営者だったことが証明できる。ちなみに弊社は、上村建設グループの企業価値を400億円と査定している。

先代との葛藤のなかで鍛錬される

 創業者は秀敏社長の実父・実氏で、中央区大名で手堅く業績を積み上げていた。創業者の実氏は独特の着眼点を有しており、農協を通じた農家地主の建設受注にターゲットを絞って、我が道を歩んできた。

 昭和62~63年に東建設(代表・東正信氏、本社福岡市南区)が福岡で初めて完工高100億円を突破した。マイウェイに徹していた創業者・実氏は幹部たちに「200億円計画を練り上げる」と檄を飛ばした。旧幹部によると実氏は完工高150億円で了解したという。

 同業者の拡大路線に刺激を受け、上村建設も上昇への舵取を選んだ。ちょうどそのタイミング(1988年8月)で秀敏氏が専務に就任した。筆者はその時からの付き合いである。

 故人は専務として「どう工事量を増やすか」を一心不乱に検討した。そして、同社が敬遠していたデベロッパーからの受注を請けるという結論に達した。この受注戦略をめぐり、創業者・実氏と秀敏氏による喧々諤々の口論を目撃したこともある。

 ただ、秀敏社長はしたたかだった。「デベロッパーからの直請けはしない。自社で施工販売するから許可してください」と創業者・実氏を粘り強く説得した。許可を得れば行動は迅速である。プロのスカウトを確保し、中央区警固でマンション販売を敢行した(販売は販売代理店への業務委託方式)。このように実父との経営をめぐる葛藤の過程で、経営者として鍛えられてきたのである。

若手人材の台頭

 2000年4月に社長に就任して秀敏社長は休む間もなく奔走してきた。4年前、肩の痛みから手術を行った。筆者は「心労による疲れが原因であろう」と推測していた。

 会社の業績は確実に進展していった。ある取引業者の新社屋式で驚いた。「この物件は上村建設さんの設計施工です」と教えられたからである。「いやぁ、設計部門にも若い感覚で優秀な設計士が育っているのだ」と改めて評価したものである!

 上村社長!今回の不幸な旅立ちに不本意な気持ちをお持ちでしょう!しかし、英輔専務を筆頭に若手が育っています。安心して草葉の陰から見守ってください。生前は本当にお世話になりました。

合掌(児玉)

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