2024年11月24日( 日 )

雅楽を生で聴いた人、いますか?(後)

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大さんのシニアリポート 第81回

 実質的な主(ぬし)でなくなるということは、カネが使えなくなるということだ。オーケストラ(雅楽)やバレエ団(久米舞などの舞手、舞人)を維持するには、いまだって大金を要する。昔もそうだったにちがいない。権力をもたなくなってからの宮廷の貧乏ぶりは、傍目にも気の毒だったらしい。とても雅楽どころではなかった。

 ちなみに近代の天皇家の財産はというと、「明治十三年から二十二年までのあいだに、政府の手で、なんとそれまでの六千倍にふやしてもらった」結果であり、「伊勢神宮の式年遷宮(本殿の建てかえ)も、二十年ごとというきまりが、百数十年にわたって中断されていることは誰でも知っているが、順調にくりかえされている時でさえ、天皇自身が全然参列しなかったりした時代がある」。その理由を、「時の権力者に足止めをくらっていたか、それともよっぽど台所が苦しかったか、どちらかだろう」と林は指摘する。

 その雅楽が、1200年以上生き延び、輸入された当時の装束や楽器そのままに演奏されている不可思議さ。発祥の地とされている中国や東南アジアの国々では、とうに絶え、その名残さえない。「古代宮廷音楽がこの列島にのこっている」という不可思議さ。

 さらに、雅楽は日本の音楽に、まったく重要な影響を与えることがなかった。つまり、雅楽は発祥の地でとうの昔に滅びたにもかかわらず、日本にのみほぼ原型のまま残されている。「雅楽はまさに輸入洋楽の典型だ。『文化国家』の華々しい出発点をかざった大オーケストラは、空しく保存されただけだった」と林はいう。

 日本音楽や芸能の源泉となった「輸入洋楽」は、「声明」であり、「散楽(さんがく)」だった。あえて影響を与えた音楽といえば、国歌「君が代」(ドイツ人エッケルト監修、作曲?)の調性が雅楽の「壱越調旋律」くらいのものだった。わかりやすくいうと、「君が代」は「レ」ではじまり「レ」で終わる。西洋音楽の調性にはない。

 宮内庁楽部の伶人(れいじん)(雅楽演奏者・楽師)だった芝祐靖さんが昭和59年、突然宮内庁楽部を退職。笛の主奏者という重職を棄てての決断になにがあったのか。翌年、「伶楽舎」を立ちあげ音楽監督に就任。民間人に雅楽を学ぶ場を提供した。「ポン太と神鳴りさま」という子ども向けの作品も手がけ、文化庁の事業で全国約140校の小中学生たちに雅楽を紹介して回った。文化勲章受章者。伶人という立場を蹴って敢然と下野したのは、時の権力(者)に反抗したのか、日本の伝統音楽になにも影響を与えなかった雅楽への謀反なのか…。

 林光は自著のなかで、名残さえない古代宮廷音楽(雅楽)がこの島(日本列島)に残っているのは、「日本列島は行きどまりだから、輸入したものがそこから先へ抜けないで、たまってしまうのだ、と言ったひともいる」という。

 日本列島を「辺境の地」というのなら、この人物と著作を忘れてはならない。内田樹(日本哲学研究家、武道家、思想家…)の『日本辺境論』(新潮新書)である。内田は著書で、「日本人は後発者の立場から効率よく先行の成功例を模倣するときには卓越した能力を発揮するけれども、先行者の立場から他国を領導することが問題になると思考停止に陥る」と指摘する。

 政治的にも文化的にも先行する中国や東南アジアの音楽(雅楽を含む)を取り込み、一部は日本流に改良を加えて自分のものにするが、雅楽のように改良に不向きなものは、他国に領導することなく(棄てればいいのに)保存したまま今に至る。「行き止まりの国」(林)だから、「領導することもなく(知らずに)」(内田)いるのが日本人なのである。(カラオケで演歌しか歌わない)「ぐるり」のメンバーが、雅楽(名前だけでも)を知っているというのは、それだけ長い間塩漬けにされてきたからに他ならない。特筆すべきなのだろう。

(了)

<プロフィール>
大山眞人(おおやま まひと)

 1944年山形市生まれ。早大卒。出版社勤務ののち、ノンフィクション作家。主な著作に、『S病院老人病棟の仲間たち』『取締役宝くじ部長』(文藝春秋)『老いてこそ二人で生きたい』『夢のある「終の棲家」を作りたい』(大和書房)『退学者ゼロ高校 須郷昌徳の「これが教育たい!」』(河出書房新社)『克って勝つー田村亮子を育てた男』(自由現代社)『取締役総務部長 奈良坂龍平』(讀賣新聞社)『悪徳商法』(文春新書)『団地が死んでいく』(平凡社新書)『騙されたがる人たち』(近著・講談社)など。

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