2024年12月27日( 金 )

続・鹿児島の歴史(4)~鎌倉時代~

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 中央で源頼朝が勢力を伸ばすと、1185年惟宗忠久が島津荘の下司職(げししき、翌年地頭へ)に任命されました。忠久は摂津国住吉の生まれ、摂関家の家人であり、幕府の有力者であった比企能員の縁者(母が比企氏)でもあったことから、両者の利害関係が一致したのです。97年には薩摩・大隅の守護職にもなり、翌年島津姓を名乗ります。

 ただし、島津忠久はその後必ずしも順調だったわけではありません。1203年、後ろ盾となっていた比企能員が滅亡すると、日向を含む3カ国の守護職と島津荘の惣地頭職を解任されてしまいます。忠久の後は、執権の北条時政・義時父子のものとなります。2年後薩摩国守護に、和田合戦の勲功により13年薩摩方の島津荘惣地頭職に戻りますが、大隅は北条氏が継承することになります。泰時の弟朝時を祖とする名越(なごえ)氏が治めます(下向せず)が、守護代の1系統として、後年種子島の領主となる種子島氏がいます。その後も幕府の影響は強くなり、南薩摩の川辺郡等は得宗(執権家)領となっていました。

 1333年に、5代貞久が足利尊氏の要請で、鎮西探題を攻撃しますが、幕府本体の崩壊とともに、島津氏が北条氏から強い圧迫を受けていたこと、鎌倉初期に失った地域や職務の獲得・回復が関係します。建武政権下で貞久は、新たに大隅・日向両国の守護、大隅方の島津荘惣地頭職に任命されました。以後、島津氏は北朝方となります。

 なお、惟宗忠久は島津荘の惣地頭であり、北薩の地頭として平姓の千葉氏、南薩に藤原姓の鮫島氏が任命されます。千葉氏没落の後は、渋谷氏です。渋谷氏は一族だけでなく、家臣や農民も連れて下向し、河川交通や市場流通を統制します。勢力を拡大し、戦国時代は島津氏の有力なライバルとなります。鮫島氏も下向しますが、北部・南部の2家にわかれ、北部の家高が解任された後、二階堂氏が継ぎます。

 1274年と81年の元寇について。蒙古に対する石築地建設は、荘園・公領、御家人・非御家人を問わず賦課がありました。これにより幕府は朝廷がもっていた政治権限の委譲を受けましたが、75年、3代久経は下国して異国警護にあたります。これまで島津本家は鎌倉在住でしたが、鹿児島に居住することになります。九州の守護は、大まかに北九州の武藤(少弐)氏、中九州の大友氏、南九州の島津氏ですが、少弐経資は、九州警護の結番(けちばん)を定め、日向・大隅・薩摩は冬3カ月となりました。81年の元寇の際は、久経は弟長久とともに出陣していますが、下国後9年の84年に筑前の筥崎で亡くなっています。異国警護はその後も続き、1304年には1カ年の在番に変更しています。九州の守護・御家人等の負担は大きいですね。

 4代の忠宗は、決まっていなかった薩摩国一宮を新田八幡宮(薩摩川内市)とするとともに、守護である5代貞久の他に、諸子に所領を分与し、和泉氏・佐多氏・新納氏・樺山氏・北郷氏ができました。

(つづく)

<プロフィール>
麓 純雄(ふもと・すみお)

 1957年生。鹿児島大学教育学部卒、兵庫教育大学大学院修士課程社会系コース修了。元公立小学校長。著書に『奄美の歴史入門』(2011)『谷山の歴史入門』(2014)『鹿児島市の歴史入門』(2016 以上、南方新社)。監修・共著に『都道府県別日本の地理データマップ〈第3版〉九州・沖縄地方7』(2017 小峰書店)。ほか「たけしの新世界七不思議大百科 古代文明ミステリー」(テレビ東京 2017.1.13放送)で、谷山の秀頼伝説の解説などに携わる。

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