2024年11月23日( 土 )

『脊振の自然に魅せられて』(番外編)~「恒例の英彦山登山へ」

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 青春時代を過ごした仲間と英彦山へ登るのが毎年恒例となっている。筑豊の田川で中学、高校とともに学び、ともに遊んだ仲間である。

 それぞれ大学へ進み、サラリーマン生活を終えている。定年後の集まりは『青春の門』と名付けた。

 エネルギーの主役が石炭から石油へと変わり、それに呼応して石炭産業で栄えて賑やかだった田川の街も衰退していった。

 中元寺川のそばにある中学校は、昭和30年代には1学級50人、10クラスで構成され、ガキ大将と秀才が集まっていたものだが、今ではその数は10分の1ほどになっている。

 東京や茨城に在住する仲間も入れると当初の『青春の門』の集まりは6人だったが、他界や体調不良などで今年の参加者は地元の3人だけだった。

 いつものようにI宅へ集合し、車1台で英彦山へと向かう。紅葉時期とはいえ、平日ということもあり、英彦山の駐車場に停まっている車はまばらだった。

 英彦山を代表するスポットである奉幣殿への石段に差しかかる。かつて賑わっていた門前町のお土産屋は、扉が閉まりひっそりとしていた。昭和の時代は行列ができていたものだが…。

 「こんにちは!」と1人で落ち葉かきをしていた高齢の女性に声をかける。「登って来る人が少なくて寂しいですね」というと、「それたい、昔は賑わいよったんよ」。久しぶりに聞く田川弁だった。お土産屋を経営しているが、今はケーブルカー駅の売店でうどん屋をやっているという。私は「帰りによるけん」と博多弁で答えた。

 奉幣殿へ続く石段は、崩落の修復工事中で迂回路が設けられていた。「とりあえず奉幣殿まで行こう」2人の仲間は「膝が痛い」「平行感覚がおかしい」などと言い、歩く自信をなくしていた。75歳ですから立派な「高齢者」なんです。

 奉幣殿でお参りし、山頂まで登ろうということになった。私以外は1年に1度の登山である。毎日ジョギングをしているIも膝を痛め不安そうだった。

奉幣殿でおまいりをするT
奉幣殿でおまいりをするT

 山頂への登山道には案内看板があり、道が丸太で補強され、登山者に優しくなっていた。丸太を観察すると「福岡県環境部自然環境課」のシールが貼ってある。

 英彦山は耶馬日田英彦山国定公園の指定区域である。2年前の豪雨により荒れてしまった登山道をようやく修復してくれたのだ。

 中宮まで来ると汗も出て、ようやく足が軽くなった、中宮も修復され、石の祠だけとなっていたが立派になっていた。

 赤や黄で色づいた樹木の光景を左右に眺めながら、落ち葉を踏みしめ、登山道を歩く。山頂で風を避け、山頂手前の行者堂で昼食をとることにした。

登山道を登る仲間
登山道を登る仲間

 各自コンビニで買ったおにぎりやアンパンを頬張る。食事が終わるとIがザックからビニールに入れたバナナとリンゴを1人分ずつ配り、「やっとザックが軽くなった」と言った。バナナとリンゴを持参するのはIの英彦山登山の恒例となっている。持参したコーヒーを飲み、山頂へ向かう。

 山頂方面から声が聞こえてくる、聞けば警察の訓練とか。15人ほどの若い警官たちがおりてきた。女性警官の1人が登山用のストックをぎこちなく握っていたのに気づき、「そんな握り方したらいかんよ、ストックは腰の高さにして」と私は注意した。ストックは身の安全を守るための補助用具で、下りではとくに有効だ。仲間からは『友行さんだけバイ、警官に注意するのは』と言われた。確かにそうかもしれないが、山の仲間として見ていられなかったのだ。

 山頂広場では遠足登山にきていた中学生が遊んでおり、賑やかだった。ただ、山頂の社が地震の影響で傾き、屋根や壁は荒れ放題、倒壊の危機に瀕していたのには心が痛んだ。

 下りは膝や足に優しい「マイナールート」を選択した。そして、朝に会ったおばさんの店でそばを食べて腹ごしらえ。おばさんは甘酒をサービスしてくれたが、私たちはそば代とともに甘酒代もそっと支払った。

 店は閉校となっている英彦山小学校の校内にある。壁に貼られた開校当時の写真を見ると子どもたちの笑い声が今にも聞こえてくるような気がした。

 その後、ホテルの立ち寄り湯で汗を流し、帰宅の途へ。畑仕事に精を出すTが野菜をたくさん持ってきてくれていた。トランクに入れた野菜をお土産に自宅へと向かう。家に着いたころには日がすっかり落ちていた。気のいい仲間たちである。

整備された山頂の道標 あとろが山頂の社
整備された山頂の道標 後ろが山頂の社

2019年11月13日
脊振の自然を愛する会
代表 池田 友行

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