2024年11月24日( 日 )

続々・鹿児島の歴史(1)~古墳について~

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 <続々>となると、飽きてきてゾクゾクしないかもしれませんが、これまで鹿児島の歴史について、島津氏を中心にしたもの、奄美・トカラ、続編で古代や文化・宗教等にふれてきましたが、どちらかというと薩摩国中心でしたので、今回は大隅国(種子島・屋久島等の熊毛地域を含む)や新たに追加したい事柄等を中心に述べます。

 まず、大隅関係です。
 古代において、薩摩と大隅の最も異なる点は、大隅には大規模な古墳が多く見られることです。古墳時代の墳墓には、大きく4タイプがあります。(1)高塚古墳(前方後円墳や円墳等墳丘をもち墳丘の内部に竪穴式石室・横穴式石室等の埋葬施設をもつ)、(2)地下式板石積石室墓(地面を掘り込んで板石を立てそのうえに板石を積み重ねて石室をつくる)、(3)地下式横穴墓(地面に竪穴を掘りその底から横に掘り進めて玄室をつくる)、(4)土壙墓(地面に穴を掘って埋葬する)です。(3)は南九州特有とされています。

 最も大規模なものは(1)です。大隅半島には4世紀の古墳もありますが、唐仁古墳群(東串良町)には前方後円墳4基と円墳133基があり、とくに5世紀前半の唐仁一号墳は全長154mで九州でも屈指の規模の前方後円墳です。5世紀後半の横瀬古墳(大崎町)は墳長140mの前方後円墳で、周濠は二重の可能性があります。(3)の岡崎四号墳(鹿屋市)は、5世紀後半の円墳で直径20m、甲冑を出土し石棺も見つかっています。このような古墳は志布志湾沿岸部に多く存在します。宮崎に西都原古墳群(我が国最大級 (1)311基、(3)12基等)がありますが、これら日向の影響を受けるとともに、肝属平野の生産力を背景に、有力な首長の存在があります。

 その代表的な豪族が、大隅半島南部に勢力をもっていた大隅直(おおすみのあたい)氏です。朝廷は有力地方豪族に君(きみ)、地方豪族に直(あたい)という姓(かばね)を与えますが、直姓は君姓よりも朝廷への従属度が高いといわれ、朝廷との結びつきが強かったことも多くの古墳が造られた一因といえます。5世紀後半~6世紀にかけて、大和朝廷が各地の首長に姓や国造(くにのみやつこ)の称号を与えて地方を支配(国造(こくぞう)制)していきますが、大隅直氏は、685年には近畿地方に拠点を移した一族がいたため、大隅忌寸(いみき)姓も与えられています。なお、在地首長が献上した土地は「県(あがた)」として設定しました。

 これに対し、薩摩半島側では、主に(2)~(4)が川内川流域を中心に多く分布しています。1群で100基を超すものや成川遺跡(指宿市)では、390体の人骨もみつかっています。
 主な古墳としては、4世紀半ばの鳥越一号墳(阿久根市 -1タイプ)があります。主軸長4.5m程の竪穴式石室は県内最古で、九州でも最大級です。ただし、近くの肥後の影響を受けたものであり、代々の有力首長の存在は想定しにくいとされています。また、ともに6世紀ですが、弥次ヶ湯古墳(指宿市 円墳 周濠を含め直径22m)や奥山古墳(南さつま市 直径12.5m)は、従来の分布域を変更させたものとなりました。

 このような大規模な古墳もありましたが、庶民の生活面では、成川式土器が使われ、住居にかまどが導入されず、貝塚が連綿と営まれました。墓は土壙墓が続き、古墳時代の文化伝統が8世紀以降も保持されました。他地域との差違は大きく、「隼人」と呼ばれ「夷狄」に近い存在として認識されていました。薩摩半島側も同様です。

(つづく)

<プロフィール>
麓 純雄(ふもと・すみお)

 1957年生。鹿児島大学教育学部卒、兵庫教育大学大学院修士課程社会系コース修了。元公立小学校長。著書に『奄美の歴史入門』(2011)『谷山の歴史入門』(2014)『鹿児島市の歴史入門』(2016 以上、南方新社)。監修・共著に『都道府県別日本の地理データマップ〈第3版〉九州・沖縄地方7』(2017 小峰書店)。ほか「たけしの新世界七不思議大百科 古代文明ミステリー」(テレビ東京 2017.1.13放送)で、谷山の秀頼伝説の解説などに携わる。

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