続々・鹿児島の歴史(3)~大隅の神宮と寺院~
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平安時代、政府の地方支配は重税の関係から徴税が困難な状況で、深刻な状態でした。
『今昔物語』巻二四に「大隅国の郡司和歌を読めること」という説話史料があります。
趣旨は、大隅守(10世紀後期の桜島忠信といわれている)が、政務不十分(納税を果たせない)の郡司を罰そうとしたところ、老人で、詠んだ和歌(「老いはてて雪の山をばいただけど霜と見るにぞ身はひえにけり」)の内容を受けて釈放したというものです。この場合は許していますが、国司の郡司に対する支配強化がうかがえ、また郡司の納税請負もほぼ不可能になっていたと考えられます。
このような背景から、大隅国では11世紀段階で荘園の拡大過程がうかがえます。11世紀半ばには大隅正八幡宮(現在の鹿児島神宮)領姶良荘が成立し、その後桑原郡の栗野院・蒲生院、鹿児島郡内の荒田荘が宮領化しています。前述したように12世紀前期に島津荘が形成されます。大隅国では、大隅正八幡宮領と島津荘に大別され、ほかにわずかに一円国衙領があります。大隅正八幡宮の勢力の強さがわかります。
ここで、大隅を代表する2つの神宮(鹿児島神宮・霧島神宮)、寺院について述べます。
鹿児島神宮は、桑原郡国府郷宮内村(姶良市)にあり、祭神はヒコホホデミノミコト、応神天皇や神功皇后等も古くから祭神としたため、八幡宮ともいいました。大隅国一之宮です。社家伝では正宮は708年の建立で、8世紀の元正天皇が奉納した銅印には「八幡宮」の文字があります。古代には大宮司職もいましたが、その後は60数代の系譜を持つ桑幡氏・留守氏・最勝寺氏・沢氏が社家を務めています。1197年の図田帳では、社領の合計は約2500余町におよびました。その後社領も少なくなりましたが、藩政時代は763石余の神領高を所有しています。1874年神宮となり、95年官幣大社です。
霧島神宮は、霧島市田口にあり、祭神はニニギノミコトです。10世紀の延喜式には日向国諸県郡霧島神社とあります。この神宮の特徴の1つに火災の多さがあります。噴火のため炎上し、950年に天台宗の性空上人が西麓の高千穂河原に再興しましたが、1234年に大噴火のため再び炎上し、田口に250年間行宮(あんぐう)が置かれました。1484年真言宗の僧兼慶が11代忠昌の命を受け再興しました。その後また噴火で炎上し、同じ場所に1715年21代吉貴の寄進により再興されたのが現在の社殿です。朱塗りの絢爛さで、西の日光とも称せられます。
台明寺(だいみょうじ 霧島市)は天台宗で、672年天智天皇勅願所としての創建と伝えられ、青葉の笛竹の献上の地とされています。青葉の笛竹は平敦盛の故事で知られますが、台明寺の境内に自生するデミョ竹(台明寺竹)を3昼夜池で浸し、3日間修祓、半枯れになった笹つきの竹でつくった横笛です。
大慈寺(志布志市 臨済宗妙心寺派)は、1340年南朝方の楡井頼仲によって創建され、1444年には禅宗の地方普及によって十刹(じっさつ)に加えられました。十刹は京都や関東が有名ですが、文明(1469~86)末には全国で46カ寺でした。江戸期には寺領591石、寺域8町四方におよび、門前は2町、屋敷は70余を数え、「志布志千軒の町」とうたわれました。同じく志布志にある宝満寺は、聖武天皇勅願と伝えられますが、1316年再建されます。この時奈良西大寺から持ち込まれた運慶作の如意輪観音像を本尊にしたとされます。一時は坊津の一乗院、鹿児島の慈眼寺とともに「薩摩三名刹」といわれました。
(つづく)
<プロフィール>
麓 純雄(ふもと・すみお)
1957年生。鹿児島大学教育学部卒、兵庫教育大学大学院修士課程社会系コース修了。元公立小学校長。著書に『奄美の歴史入門』(2011)『谷山の歴史入門』(2014)『鹿児島市の歴史入門』(2016 以上、南方新社)。監修・共著に『都道府県別日本の地理データマップ〈第3版〉九州・沖縄地方7』(2017 小峰書店)。ほか「たけしの新世界七不思議大百科 古代文明ミステリー」(テレビ東京 2017.1.13放送)で、谷山の秀頼伝説の解説などに携わる。関連キーワード
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