2024年12月27日( 金 )

続々・鹿児島の歴史(9)~奄美の砂糖2~

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奄美のサトウキビ畑

 4期です。これまでの政策を「緩ガセ過ギ候(甘やかしすぎ)」として、徹底的に厳しくします。1830年からの専売制度は、2回目と違い、島での買い上げで隠れて売れば死罪、金銭流通も禁止したため、生活必需品は砂糖交換による藩の販売で、値段も藩が一方的に決めました。この10年間の年平均出荷額は、米6000両に対し砂糖23万5000両です。3期の砂糖は12万両ですので4期は約2倍です。

 さらに幕末には、斉彬が藩主となり支出が増えたり、他藩で砂糖産業が発展し薩摩が利益を独占できなくなったりしたため、検地を行い、土地を広く見積もることで年貢量を増やしました。大島では1848年には約558万斤でしたが、52年には約629万斤、60年代には900万斤台です。

 人口について。1831年大島の人口は3万6,375人、66年は4万3,435人で、35年間で約2割の増加です。一般的に近代以前の社会では、人口増加は食糧増加を意味し、活気ある社会といわれますが、奄美の場合は、砂糖生産が主で日常食料は藩が準備しました。砂糖生産の労働力確保が主目的であり、単純に活気ある社会とはいえない面があります。

 砂糖の重要性(=奄美の大変さ)は、江戸期だけではなく、明治期も同様です。

 明治2年、鹿児島特産品の入金額の内黒糖は約50%(奄美黒糖は総入金額の約35%)です。明治初年、貿易は赤字で、砂糖は第2位の輸入品です。明治4年の廃藩置県後、国は「自由売買」、県は「専売」が基本方針です。6年に国は黒糖自由売買許可を出します。これに対し、県は国の許可を得て「大島商社」(鹿児島商人の立場)を設立し、7年春には「大島商社」の専売が始まります。国は大隈重信の提案で「大島県」構想を打ち出したことは前述しました。「半ば独立国の如し」といわれた鹿児島県の一面です。

 明治8年には、丸田南里(なんり 24歳)が帰国して、砂糖自由売買運動のリーダーとなります。「生活改善」と「自由・平等」を運動の柱としました。

 明治10年には、自由売買請願のため55人が鹿児島にきています。投獄されましたが、西南戦争が起こったため、従軍(西郷軍)を条件に解放(35人、20人は老年・病気)されました。5月には政府軍に嘆願書を出しました(このころは政府軍有利)。なお、55人中、6人は戦死、26人は十島沖で遭難、無事に帰ってきたのは23人でした。

 明治11年には島民の運動が功を奏して大島商社解散です。砂糖の自由販売開始です。ただし、台風の影響や砂糖の質低下、島民の経済に関する認識の低さ等から、島民は高利の借金に苦しむようになります。19年には、鹿児島商人の利益をなくすため、大阪商人と砂糖一手販売の契約を結びます。大島島司の新納中三(幕末の藩家老)が鹿児島商人の反発を受け、免職しました。翌20年には、鹿児島商人の独占利潤を守ることが狙いの県令39号大島郡糖業組合規則が定められましたが、反対運動で21年廃止です。

 明治21年からは、「三方法運動」が始まりました。(1)不当な借金(利子の100%超えも)払いを拒否する、(2)栽培方法を工夫して生産量を増やす、(3)質素な生活で貯蓄をする、です。全郡的な運動は始めてで、暮らしぶりも少しずつ変わります。

 明治27年には笹森儀助(青森県出身)が大島島司に就任します。笹森は「糖業改良」と「負債償却」を目標とし、多くの事業を行いますが、年利で80%を超えていた利子も、明治30年代以降は36%にまで下がっています。これには、日清戦争で植民地となった台湾から多くの砂糖が入ってきたことも関連します。

<プロフィール>
麓 純雄(ふもと・すみお)

 1957年生。鹿児島大学教育学部卒、兵庫教育大学大学院修士課程社会系コース修了。元公立小学校長。著書に『奄美の歴史入門』(2011)『谷山の歴史入門』(2014)『鹿児島市の歴史入門』(2016 以上、南方新社)。監修・共著に『都道府県別日本の地理データマップ〈第3版〉九州・沖縄地方7』(2017 小峰書店)。ほか「たけしの新世界七不思議大百科 古代文明ミステリー」(テレビ東京 2017.1.13放送)で、谷山の秀頼伝説の解説などに携わる。

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