2024年12月28日( 土 )

続々・鹿児島の歴史(14)~桜島と焼酎・さつまいも~

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 最後に、鹿児島のシンボル桜島と焼酎・さつまいもについて。

 桜島は、約1万3000年前姶良カルデラの南縁部に中央火口部ができたものです。桜島の地名由来は不明ですが、江戸前期までは向島です。1698年に「向嶋ヲ桜嶋ト唱可申」の文書があり、18世紀頃から桜島です。噴火の記録として、続日本紀等に710年、718年、764年とありますが、大規模噴火は文明・安永(前述)・大正・昭和の4回です。15世紀の文明溶岩は南西部と東部にあります。昭和21年の噴火では、推定2億トンの溶岩が流出しました。

 最も大規模な大正噴火について。大正3年1月12日に大爆発があり、煙は高さ1万mにおよび、噴出物(推定33億トン)は東北地方にまで達しました。流出した溶岩は14日には山麓へ、30日には桜島と大隅半島は陸続き(水深50~70m、幅400~500mの瀬戸海峡を埋めた)になりました。真冬でありながら溶岩近くの海水温度は35~50℃にもなり、地震のために停電、鉄道不通、通信も途絶え、一時は「鹿児島全市に生物なし」の誤報も流れました。死者・行方不明38人、全倒・消失家屋2183戸、6集落が埋没しました。四五連隊や警察の活躍もあり、治安状態はよかったそうです。その後桜島では人口の約1/4にあたる約5,600人が県内各地へ島外移住しました。

 なお、噴火には多くの前兆がありました。12月下旬から井戸枯れや井戸水増加、海水温度の上昇等、前日にも蛇や蛙が出る、鶏が昼に鳴く等です。黒神地区では約800人が事前に対岸に避難しましたが、鹿児島測候所(238回の地震を記録)は震源を市内の吉野地区付近と公表したため避難が遅れた人もおり、その後恨まれることになります。

 桜島の噴火にともなう降灰は、現在も日常的なものですが、公式記録では昭和60年が最高で、1カ月では1m2あたり5902g(8月、この月は8日連続の降灰、吉野地区では1日に6697g)、年間でも1万5908gです。鹿児島ならではの「桜島上空の風向予報」もこの年から始まっています。

 焼酎について。焼酎製造の起源は不明ですが、初見は1559年墨書された大工(作次郎と助太郎)の棟木札への落書(八幡社の座主が「一度も焼酎をくだされず候、何ともめいわくな事哉」 伊佐市郡山八幡)です。この焼酎は米焼酎です。さつまいもは、17世紀に中国から琉球を経て薩摩へ伝わり、18世紀初頭に前田利右衛門が藩全土へ広げています。従って芋焼酎の出現は江戸中期以降です。

 斉彬と芋焼酎について。雷管銃の研究・製造にあたって、エチルアルコールが必要でしたが、その原料が米焼酎でした。斉彬は米の大量消費は庶民生活に影響するため、芋焼酎の研究と利用を命令します。うまくいけば、工業用だけでなく、特産品になれば新田開発の米増産と同価値があると考えていたといわれています。

 なお、前述した「鹿児島ぶり」や「薩摩見聞記」にも以下の記述があります。

○唐芋で焼酎をつくる。百姓などは、多く飲む。下品である。唐芋の香りがぬけず、芋臭さがある。多く飲む者は、必ず足が腫れる病気になるという。

○唐芋は、平常貧民の生活を保つだけでなく、凶年には一般人民の命も救っている。薩摩は本場だけに芋の味が極めて「美しく」、また種類も多い。俗に十一里というのはその味が栗(=九里)を超えることを意味しており、八里半は栗につぐ意味である。

(了)

<プロフィール>
麓 純雄(ふもと・すみお)

 1957年生。鹿児島大学教育学部卒、兵庫教育大学大学院修士課程社会系コース修了。元公立小学校長。著書に『奄美の歴史入門』(2011)『谷山の歴史入門』(2014)『鹿児島市の歴史入門』(2016 以上、南方新社)。監修・共著に『都道府県別日本の地理データマップ〈第3版〉九州・沖縄地方7』(2017 小峰書店)。ほか「たけしの新世界七不思議大百科 古代文明ミステリー」(テレビ東京 2017.1.13放送)で、谷山の秀頼伝説の解説などに携わる。

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