2024年11月25日( 月 )

「検察崩壊元年」ゴーンの反撃(5)

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 そして、犯人が国外にいるという要件だけで時効停止効を認めることは前条の時効成立の大原則を完全に否定する結果となるから、犯人が国外にいるという要件が、いかなる合理的理由で時効停止効が認められるのかの合理的、法理論的検証が不可欠となる。

 そこで、判例のいう「十分な合理的根拠」とは何かを検討することになる。

 最高裁判決がいう「十分な合理的根拠」など全くないことは、少し事件を分析すれば明白になる。事案にそって具体的に見れば、密出国事件は基本的に「国内」で既遂となる。犯罪捜査は国内だけで完結するから外国に犯人がいること自体、なんの関係もない。まして捜査権云々は全くの唐変木である。密出国罪に限らず、一般の犯罪についても犯罪行為地・実行場所と既遂時期は捜査の必要性を判断する決定的要素であり、当然のことながら、日本の刑法が規定する犯罪は国内犯罪である。

 国外が犯罪行為地であり、既遂時期も国外滞在時であれば、当該外国の刑事捜査権の対象となるのであり、日本の捜査権は無い。仮に日本人の国外犯として可罰的であっても、当該外国で刑事処罰された犯人を再び日本で刑事処罰することは明らかな二重処罰となる。犯罪行為地が国内で既遂時も国内滞在時であれば、その後、犯人が国外に滞在しても捜査権の問題や捜査の困難などは存在しない。

 結局、犯人が犯罪行為後、国外にいることは、捜査権とも捜査の困難とも無関係である。「犯人が国外にいる」という事実は起訴状の到達を困難にする事実ではあっても、捜査権云々、捜査の困難性とは全く関係のないことである。いかに最高裁判決が条理と論理に反したものであるか明らかである。但し、最高裁の言う捜査の必要性が「自白取得の必要性」であれば、確かに自白の取得は困難であるが、それはまさに「逃げ隠れ」している場合も同じであるから、「逃げ隠れ」も単独で時効停止の要件とならなければ論理的整合性を欠く。

 じつは最高裁判決を支えた詭弁の骨子は、「又は」という日本語接続詞に内在する論理的曖昧さの悪用であった。従って、法255条の英文表現には最高裁判決のような理解は不能である。文法的な表現をすれば、「又は」が順接か逆接か、例示並列か排他並列かの違いで解釈が異なってくる。「又は」の意味がいかなる意味の並列接続詞であるかを決定づける要素は並列された語句の性質・内容による。

 「犯人が国外にいる」という語句は犯人の状態を表し、「犯人が逃げ隠れ」という語句は犯人の行動を表わす。これらは犯人の属性を表わし、これらの語句の間には排他的関係は成立しないから、犯人の属性についての例示的並列でそれは「起訴状が送達できない」という場合の例示と解することが論理的解釈となる。

 最高裁判例の解釈は「又は」が並列した語句は「犯人が国外にいる」という犯人属性語句と「犯人が逃げ隠れして起訴状・・が送達できない」という判断語句の並列と解釈した。  明らかに並列された語句に論理的整合性がない。この不整合をさらに文法的に証明する。

 複文構造は単文に分解表示できるから、二つの単文に分解すると、正しい日本語解釈では「犯人が国外にいるときで起訴状・・が送達できない場合」と「犯人が逃げ隠れして起訴状・・が送達できない場合」これらの場合が、時効停止の場合である、ということになる。

 一方、最高裁の判決論理で、複文を単文に分解すると、「犯人が国外にいる場合」と「犯人が逃げ隠れして起訴状・・が送達できない場合」これらの場合が、時効停止の場合である、ということになる。後半の単文は前条の公訴時効の大原則とも整合するが、前半の単文はそれだけでは全く論理性の欠けた法文となる。法文はそれだけで自己完結的に合理的で論理的なものでなければならない。そうでなければ、その法文の正当性を確かめようもないからである。そのための苦し紛れの「十分な合理的根拠」説示となったものである。

(つづく)
【凡学 一生】

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