「リゾート再生請負人」加森観光・加森公人会長の挫折~なぜカジノ誘致に勝負を賭けたのか?(前)
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「リゾート再生請負人」。カジノを中心とする統合型リゾート施設(IR)事業をめぐる汚職事件で、贈賄容疑で在宅起訴された加森観光(札幌市)の加森公人会長(76)は、こう評される。
九州では大分県別府市の巨大ホテル「別府杉乃井ホテル」や北九州市のテーマパーク「スペースワールド」を再生させた。カジノ誘致に勝負を賭けるまでの加森氏の足跡をたどる。
リゾートの難問は初期投資が巨額で、繁忙と閑散の落差が大きいこと
リゾート開発には、広い敷地と施設などのインフラ整備だけでも膨大な初期投資が必要なため、新設のリゾート施設が成功したためしはほとんどない。しかも、繁忙期と閑散期の落差が激しい。半年間で稼ぎ、後の半年は閑古鳥が鳴く。
加森観光の加森公人会長は、リゾート固有のネックを克服して「リゾート再生請負人」の異名を轟かせるようになった。
加森氏の手法とは何か。1つは、固定資産税を払わないようにすること。広大な敷地の固定資産税は巨額にのぼる。多額の固定資産税を払っていては、リゾート施設を黒字にすることは難しい。加森氏は、自治体に資産を買い取らせて、加森観光が運営するだけにした。これで、固定資産税を払わなくてすみ、事業は利益が出せる。
2つは、リゾート地を通年型にすることだ。加森観光が拠点とする北海道のリゾートとはスキー場と同義語。スキー場は雪が降る冬しか商売が成り立たない。加森氏は夏も食っていけるようにした。
加森氏は事業に足を踏み入れたときから、この2つをキーワードにした。
冬場の収入を確保するためスキー場を買収
加森観光の創業者は、(故)加森勝雄氏。日本大学専門部法科を中退、1933年釧路で製薬会社の販売代理店を始めた。戦後、札幌市で貸ビル業を開業し、53年に加森産業を設立。56年に第三セクター方式で登別温泉ケーブルを設立、観光業に進出した。
長男の公人氏は68年、学習院大学経済学部を卒業後、父親の勝雄氏が経営する登別温泉ケーブルに入社し、アイデアマンぶりを発揮する。登別は太平洋に面しているため、夏には霧が発生し、原生林や太平洋の眺望を売りしているロープウエーを利用する客が途絶えてしまう。そこで山頂に「のぼりべつクマ牧場」を開業。ヒグマに芸を覚えさせ、観光客を呼び込んだ。
しかし、寒さの厳しい北海道の冬にはクマ牧場の来場者は激減する。そんな冬場の収入を確保するために81年、父親とともに加森観光を設立。北海道留寿都(るすつ)村にあり、破綻した大和観光が運営していた大和ルスツスキー場を買収した。
スキー場だけでは採算がとれないと考えた公人氏は遊園地を併設。しかし、北海道にある遊園地は、夏を中心とした半年しか稼働できないという制約があるため、ほとんどの遊具を中古で購入し、遊園地を世間相場の半値でつくり上げた。入園料を支払えば遊園地内の乗り物など遊具が無料になる入園料方式を遊園地業界で初めて取り入れるなど、スキー場と宿泊施設のみだったルスツを通年型のリゾートへ拡大した。
リゾート法がもたらしたバブル経済の狂乱に踊らなかった
リゾートの歴史は有為転変である。1987年のリゾート法の施行で、全国至るところでリゾート開発が進み、世は「リゾートバブル」に沸き立った。加森氏はバブル崩壊を無傷で乗り切ったことが、「リゾート再生請負人」として駆け上がっていくきっかけとなった。
創業者の勝雄氏の本業は貸ビル業だ。勝雄・公人親子は、70年代後半から80年代半ばにかけて、ススキノを中心に40以上のビルを買い漁り、1日に6棟のビルを購入した日もあった。しかし、87年を境にビルの購入を止めた。価格が上がりすぎて、利回りが悪化したためだ。これでリゾート法がもたらしたバブル経済の狂乱に踊らずに済んだ。
国内での投資を控えた加森氏は、88年から海外投資を加速させる。米国のスキー場を相次いで取得したのだ。92年、公人氏は父の後を継いで加森観光の社長に就いた。投資家、公人氏に日本に目を向けさせる事態が起きた。
全国のリゾート施設はバブル崩壊で壊滅状態に陥り、公人氏にはまたとないビジネスチャンスが訪れた。購入した米国のスキー場を97年に売却し、100億円の売却益を得た。それを軍資金として経営に行き詰ったリゾートの買収や運営委託に乗り出したのである。
(つづく)
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