【シリーズ】生と死の境目における覚悟~第2章・肉親を「看取る」ということ(2)
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職を辞して福岡に戻る
石田弘次郎(仮名)が福岡に戻ることになった最大の理由は、父・弘が約20年前から「そう状態」になることが多くなったからだ。航海を終えて自宅に戻った弘は、福岡の歓楽街で豪遊を重ね、3カ月で約800万円もの散財をしたという。
弘次郎は、その事実を母・洋子から聞かされ愕然とした。1年の3分の2を船上で過ごしていたことによる心理的ストレスが「そう状態」になってしまう要因かもしれないものの、(後に散財の理由が判明する)弘次郎は父・弘に「母を困らせないでくれ」と厳しく言い放った。
それから8年後、弘が脳梗塞で倒れた。自宅に戻ってからも風呂で溺れるなどしたため、「母1人の介護は限界」と弘次郎は判断し、当時勤務先の横浜から職を辞して福岡に戻ってきたのだ。
弘次郎が福岡に戻ってからは、家族3人での生活が3年間続いた。母・洋子が父に付き添い、弘次郎がその手伝いや家事などを行った。また、弘次郎は生計を立てるため、運輸関係の会社に就職し、ドライバー職に就いた。その会社は、弘次郎の現状を理解してくれたため、何とか母のサポートができたという。
しかし、介護で疲弊した母・洋子の身体も病に冒されてしまう。さらに、父・弘の容体も悪化していった。母は、すい臓がんと診断された。母もがんに冒されたことで、弘次郎は父と母、2人の介護・看病をすることになった。
父・母とも入退院を繰り返す状況で、弘次郎は両親の介護と看病を行いながら仕事を続けた。そんな弘次郎にさらなる苦難が襲いかかる。父方の伯母が精神を病んでしまい、入院を余儀なくされたのだ。
自分1人で3名の介護・看病は難しいと思い、親族の手を借りようとしたが、理解を得られず、結局、弘次郎が父・母、そして伯母の介護・看病をすることに。姉はすでに結婚し、東京に所帯をもっていた。弘次郎は状況を説明し、サポートを頼んだが、姉からは「こちらの生活が多忙で無理」と断られた。
「姉は幼少のころから、勉強ができ、優秀だったので、両親に期待され、大事に育てられました。僕は、たいしたことがなかったので、姉に対する期待は大きかったです。しかし、結婚後、姉が福岡の実家に戻ることはなかったですね」と語る弘次郎。
ドライバーの仕事を続けながらの介護・看病だったため、ほとんど睡眠時間がなかった。さらに伯母・正子の判断能力が低下してしまったこともあり、保有する不動産などの財産を保護するため、弘次郎が保佐人となった。だから、休日は3人の介護・看病とともに、保佐人としての手続きなどに奔走し、弘次郎自身の心身も悲鳴をあげていた。弘次郎は24時間、心身が休まることのない状態で、3人の介護・看病を懸命に続けた。
弘次郎は、「まったく現状を理解してもらえなかったことが辛かったですね」と当時を振り返る。
(つづく)
【河原 清明】※介護経験のある方は、ぜひご意見・ご感想をお寄せください。
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