2024年11月26日( 火 )

「検察崩壊元年」ゴーンの反撃(10)

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事件の本質

 ゴーン事件はゴーンの主張によれば冤罪である。そして日本の刑事司法の根本問題が絶えず発生する冤罪事件であることに誰も異論がない。

 また、多数の冤罪の存在は刑事司法だけの問題ではなく、民事事件や行政事件も含めた司法権のあり方の問題であり、さらに昨今の官僚・政治家による政治腐敗の多さも含めて考えるなら、日本の民主主義国家としての近代国家性、法治国としての在り方から見れば、法律専門家、官僚、政治家による「法の悪用」法匪の跳梁跋扈という現象に他ならない。

 この法匪の暗躍を可能にしているのが国民(およびその耳目となるマスコミ)の法的素養の欠如・低さであり、それはもちろん日本の法学教育、教育制度の結果であるから、日本の後進性は政治的な一種の「デススパイラル」の産物といえる。

 以上はゴーン事件をマクロ的に俯瞰したものである。一方、マスコミ報道ではゴーンの国外脱出が微に入り細を穿って報道されている。「木を見て森を見ず」とは、まさに現在の報道の在り方を示している。これは例のごとく、一群の法匪にとって極めて好都合な現象である。一群の法匪とは検察を中心とする法の悪用者たちである。

 ゴーン事件の本質は、ゴーンが起訴された事件が冤罪であるか否かであって、この問題の決着を見ないで派生した問題である「人質司法」の問題、さらにそれから派生した「国外逃亡」の問題ではない。

 今回のゴーンによる国外脱出が、もうすでに「人質司法」問題を奇妙な方向に向けてしまった。テレビに出演する識者が「無罪を主張するなら正々堂々と国内に滞在して裁判を受けるべきで国外に逃亡してしまっては、言行不一致であり、矛盾の行動である」「やはり検察のいうようにゴーンを釈放すべきではなかった」という旨の評論を展開している。国外脱出の過大評価、誤解という他ない。

 ゴーンは国内で厳しい行動・言論の制限を受けた状態では正当な反論・弁護活動が行えないとして違法の誹りを覚悟で国外脱出をしたもので、その主張が真実であれば今後の弁論活動を注視する他ない。ゴーンの国外脱出が単なる科刑逃れであれば、現在出回っているゴーン非難はすべて正当である。従って、識者らのコメントはその意味で時期尚早である。

 ミクロ視点の議論のなかで、筆者が最も法匪に悪用されると危惧している法律規定が「刑事被告人が在廷しなければ刑事裁判の公判が開けない」という規定である。

 かつて田中角栄元総理大臣は「超法規的」裁判手続で、外国での「伝聞証拠」を有罪の証拠として採用され、有罪判決を受けた。

 ゴーン裁判でも、「超法規的」(つまり上記の刑事訴訟法規定を堂々と犯して)ゴーンの裁判を進めることが、被告本人が一番望んでいることで、かつ、国民も真実究明を望んでいるから実質的に刑事司法の理想に合致する。一番裁判を進めたくないのは検察と裁判所である。ゴーン裁判が停止されたら、国民は裁判所が法律を遵守した(しかもそれは極めて形式的に)、と理解する以上に、背後に存在する「思惑」を理解する必要がある。

 ゴーンの裁判を迅速に開始することは、つまり、事件の核心について理性による判断が公開の場で行われることである。これにより、ゴーン事件が冤罪であるのか否か、人質司法は存在したか否かの決着がつく。国外脱出が密出国罪であることは明白であるから、検察は同罪が時効とならないように時効停止のための形式的公訴提起をすれば十分である。

 国民はゴーン事件でいまだになお暗黒の闇のなかにある「司法取引」の実態について、関心を失ってはいけない。ゴーンの主張する冤罪の真の理由がそこには存在する。だからこそゴーンは事件関係者、つまり日産の社員などとの厳しい接触禁止が課せられている。

(つづく)
【凡学 一生】

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